連載「普通の人の普通の日々」
フィクションのような日記のような連載「日々のレッスン」第22回。/天神崎。ここに来るといつも、いつの間にか「ウユニ塩湖みたいな写真が撮れる」ということでインスタ映えスポットとなった岩礁ではなく、後背山である標高約三〇メートルの日和山に登る。
フィクションのような日記のような連載「日々のレッスン」第21回。/「不測の事態ほど苦手なものはないんですよ。」「そんなの、得意な人っているの?」「侑ちゃん、何笑ってんの?」「なーんにも。」
フィクションのような日記のような連載「日々のレッスン」第20回。/結局いつまでも西太平洋とかメラネシアには縁のない人生だが、当時から彼女の声で聞いた「クラ交易」「トロブリアンド諸島」ということばの響きに魅せられて、わたしは文庫本で手に入る『…
フィクションのような日記のような連載「日々のレッスン」第19回。/本を読むわたしにとって、「それを買う理由」が腑に落ちていることは、読み始めることと同じかそれ以上に、大事なこと。
フィクションのような日記のような連載「日々のレッスン」第18回。/「〝正義は制度化された商品の平等な分配という意味にまで下落している〟――こんなふうに的確なことばっていうか、いま自分が感じていることを言語化されているのを読むと、何ていうか、幸…
フィクションのような日記のような連載「日々のレッスン」第17回。/年末から年始にかけては宗教と植物になりそうだった――というのはわたしの読書のことで、きわめて個人的な話だが、だからこそ様々な社会的要因に影響を受けている。
フィクションのような日記のような連載「日々のレッスン」第16回。/子どもでなくても得意なことばかりやりたくなるのは道理だけれど、「得意なこと」と「好きなこと」を同一視すること、混同することは危うい。
フィクションのような日記のような連載「日々のレッスン」第15回。/身体の柔らかい「ハッピーベイビー」のポーズなんかはチャーちゃんには楽勝すぎて、どこにも力がかかっていないようでエクササイズにはなっていないように見えるくらいで、でもそれはチャ…
フィクションのような日記のような連載「日々のレッスン」第14回。/とにかくデイリーなストレッチのルーティンも、自分では最適解を得られないので先達に頼る。
フィクションのような日記のような連載「日々のレッスン」第13回。/自分にとっての<今年の重大ニュース>、あるいは虫けらたちの暮らしと歌。
フィクションのような日記のような連載「日々のレッスン」第12回。/朝、エイミーと掃除。エイミーというのは所謂お掃除ロボット。エイミーという名には、わたしの好きな映画の主人公で主演俳優の名も含意されているし、時々無性に聴きたくなるエイミー・ワ…
フィクションのような日記のような連載「日々のレッスン」第11回。何もしたくない一日がある。何もしたくないが一ヶ月続くことがある。それでも本に、食べることに救われる。救われているのはわたしなのか、時間なのか。ということは世界なのか。ハロー世界。
フィクションのような日記のような連載「日々のレッスン」第10回。<それでコガラが去ると、どこかからカモメがやってきて――これも違った、アジサシ類がやってきて、「なすがままに、なすがままに。」と聴こえるように鳴いて飛び去っていった、というのがわ…
フィクションのような日記のような連載「日々のレッスン」第9回。<何度も読み返したくなる本があり、いくらでも観返したくなる映画がある。そんなにたくさんはない。たぶん三桁はいかない。実際に読み返す、観返すものはもっと少ない。>
フィクションのような日記のような連載「日々のレッスン」第8回。わたしは山を登りながら人の会話を聴いていると、「話したい」ことがアタマに浮かんでは消えていく、あるいはコップに水が溜まるみたいにして増えていき、やがてこぼれていく。山頂に辿り着い…
フィクションのような日記のような連載「日々のレッスン」第7回。「レジェンダリーっていうのなら、ラグジュアリーでシュプリームでオーサムじゃなけりゃね。」「何よそれ。――でもやっぱこれ、おいしいよね。お姉ちゃんの飲んでるのは、何?」
フィクションのような日記のような連載「日々のレッスン」第6回。「本読んでてさ、ここ、この文!って――そこで感じた気持ちを誰かとシェアしたい、話したいって思うじゃない。でもほとんどの場合、そのときの気持ちはだれとも共有できずに終わるんだよね。」
フィクションのような日記のような連載「日々のレッスン」第5回。ごく薄いフィルム付箋を本を読みながら、気になった(気に入った、とも少し違う)センテンスや段落に目印に貼っていく。という習慣を持ったのはいつ頃からだったかもう思い出せない。
フィクションのような日記のような連載「日々のレッスン」第4回。わたしは抽象的な感覚を数値や目に見えるもので言い表したり置換したりすることは、しおりさんがボディケア/トリートメントのプロフェッショナルであることと通じているのではないかと思った…
フィクションのような日記のような連載「日々のレッスン」第3回。読んでいる本の気になった箇所に極細のフィルム付箋を貼っていくのはわたしの習慣で、何十本もの付箋が飛び出たわたしの読み終えた本は、その付箋が小さな羽根の集まりのようで、わたしがいな…
フィクションのような日記のような連載「日々のレッスン」第2回。わたしたち三人の<レジェンダリー・マンスリー・トーク>。
頭の片スミに「野鳥」の居場所を拵えておいて、「Apple Music」でプレイリストを作る、そして時おりは、フィクションのような日記のようなテキストを添えて。シリーズ「日々のレッスン(ft. Bird Songs in Apple Music)」、今回からスタートです。
元首相が銃撃されたその日、わたしは仕事帰りに最近懇意にさせていただいているある人に会った、ニュースは直前にスマホで眺めただけで、それが何かを終わらせ/何かの始まりを告げるできごとであろうことは直感的にわかった、(中略)それでもわたしたちは…
「あなたを構成する一部分が欠けてしまったときには、欠けた部分を、今までのあなたの持っているものとは違う、『新しいピース』で埋めましょう」そんなアドヴァイスから、考えたこと、「生きのびる」こと。
「山頂で初日の出」。さすがにそれは自分には無理だな、と思いつつ、山を登りながら、元日の朝、思い出した母のことば。
“さんぴんキャンプ”世代のわたしとしては――いや、当時のヒップホップ、日本語ラップについては後追いでしたが――、GWといってもアメリカ村だのモトコー(神戸・元町高架下)だのでレコード、CDを買い漁っているような学生時代でしたが、緊事宣下の2021年黄金…
キラクに写真をアップしていければ、と思って始めた、姉妹ブログ「sotowrite」での鳥見ログ。鳥見は息子とふたりで続けていて、ライフリストも増え続けてはいるのですが、なかなかアップできないでいました。それを、今回ひさしぶりに更新。きっかけは、奈良…
わたしが働いている街の近くで、サンカノゴイが見られると聞きつけて、小学生の息子と探鳥行。結論からいうと、サンカノゴイとは出逢えなかったのですが、わたしたちの3月のbirdingは充実したものとなりました。
キーも小さいし、キーピッチも17mmと、多少窮屈といえるサイズのキーボードなのに、入力していてこれほど快適なのは何故だろう、と使ってみるといつも思う。だったらもっと使えばいいのに、と自分ながらにいつも思う。だからこのテキストは、ポメラDM200への…
今冬は、ここ和歌山ではなかなか珍しい、コハクチョウ一羽が滞在中。ハクチョウというと一般的にはチャイコフスキーのバレエ音楽のように、優雅なイメージがありますが、初めて間近で見るかの姿はとても大きく勇壮で、というより水浴びをする姿はいっそ荒々…