ソトブログ

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日々のレッスン #016――「得意なこと」と「好きなこと」。

 

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 子どもでなくても得意なことばかりやりたくなるのは道理で、わたしの場合、学生時代のそれはサッカーであり、それ以上に中高生のころは学校の勉強というかテストだった。テストとなると順位が出て、自分の「実力」が数値として目に見えるし、わたしの親は「学年10位以内でいくら」「学年3位以上でいくら」「全国模試で何番でいくら」と、小遣いというカタチでわたしたちにインセンティヴを与えていた。わたしはテストの点を取るのが得意で、学業で躓いたことがなかったからそれを「好き」だと思っていた。だから地域振興の活動をする地元の同世代くらいが運営する団体のマニフェストというのか、ウェブサイトの<About Us>に、「ぼくら」の「ふつう」として、
「学校の勉強は嫌いだし――」
 と書かれているのには違和感を禁じ得なかった、子どもにとって(オトナにとっても)得意なことは好きなことだという自覚がある。たとえそれが錯覚というか、見当違いのことだったとしても。というのは「得意なこと」と「好きなこと」を同一視すること、混同することの危うさはオトナにならないと、ある程度経験を積まないとわからない。ずっとわからない人もたくさんいる。

 

 いや、本当にそうか? いまチャーちゃんはすごい勢いで縄跳びが上手くなっていて10回20回跳べて喜んでいた数日間から、一週間もすると連続二〇〇回オーバー、みたいになっていてそばで見ているオトナの実感としては指数関数的と感じるくらいの上達ぶりで、本人も得意になっていて縄跳びは毎日の「宿題」でもあって、宿題は「誰でも面倒なモノ」「嫌なモノ」という先入観がオトナのわたしたちにはあるが、チャーちゃんにとっては少なくとも縄跳びはいま、毎日やりたいこと、大好きなことになっているように見える。

 

 同様にお風呂に入れば湯気で曇った鏡や壁に、毎日習いたての漢字をつらつらと得意げに書いていくチャーちゃん。「ふつう」に言及すること自体に、どんな時代であっても危うさが内包されるのだから、細心さ、心砕きが不可欠だ。
「好き」について考えること、表明することも。詩人・小説家の最果タヒさんの本に自身の好きなものやことについて、三種のテキストで書き分けた名著、『「好き」の因数分解』というのがある。かように「好き」は、多角的に考える必要がある。

 

 この物語はイエスが彼女の病を治すという奇蹟物語を混じてはいるが、私たちの心を動かすのは彼女の病気がイエスの奇蹟で治されたという結末よりも、おずおずと衣服に触れたその女の指一本から彼女の切ない苦しみのすべてを感じとったイエスである。たくさんの人々の蔭からそっと差しだされた女の指、衣にかすかにふれただけでイエスはふりむく。彼は彼女の苦しみのすべてがわかったのだ。我々にはその時の女の怯えた顔もイエスの辛そうな表情も、このおずおずとした指一本からはっきり想像できるのだ。


遠藤周作『イエスの生涯』(新潮文庫)より

 

 イエスの「慰めの物語」のリアリティを論じた遠藤周作のこのテキストから、人々の「苦しみのすべて」を感じとることは、イエスにとって「得意なこと」だったのだろうとわたしは考える、それは換言すれば精神科医・中井久夫のいう<S親和者>の、兆しを察知する能力のことではないか。あまりに得意だったためにイエスは人々を慰め、奇蹟を起こすことが好きだったのだ、それはひとりの人間の人生としては、キワキワの危うさを含んでいたとわたしには思えてならない。
 子育てはムズカシイ。カズヒコとチャーちゃんが――こういっては彼らに対して無責任であるともいえるが――「実の子」ではないことでわたしには少しだけ、荷が軽くなる心地がするのだった。それが彼らの心身にも「軽み」を与えるものだと、いまは信じたい。

 

 

シリーズ「日々のレッスン」について

日々のレッスン」は、フィクションと日記のあわいにあるテキストとして、不定期連載していくシリーズです(できれば日記のように、デイリーに近いかたちで続けていけたら、と考えています)。また、それにApple Musicから選曲した<野鳥音楽>プレイリストを添えた「日々のレッスン ft. Bird Songs in Apple Music」を、月1、2回のペースで更新しています。

 

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