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ブックレビュー“読む探鳥”:藤原辰史『植物考』――植物、飛翔できない鳥。

 

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藤原辰史『植物考』(生きのびるブックス、2022年11月刊)( 生きのびるブックス公式サイト・本書紹介ページ

植物考

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野鳥観察は対象にさわれない。

 

 野鳥観察は対象にさわれない趣味であるだけに、こちらとあちら、人間と野鳥たち、ヒトと生きものたちの世界の<距離>――あるいは生きている<世界>そのものの違いを、よりいっそう意識するものであるようにわたしには思われます。
 神の似姿として人間が作られ知恵を与えられる一神教や、地球外知的生命から<武器>を与えられることで地上の王として君臨することになる映画『2001年宇宙の旅』のようなサイエンス・フィクションを持ち出すまでもなく、やはり人間と地上の他の生きものたちのあいだには、断絶があることが自明であるように、わたしには思われます。

 しかし本書『植物考』には、以下のような「人間の植物性」への言及が幾度も繰り返されます。

人間も含まれる多くの高等植物は、消化器官に肥沃な動植物の亡骸を流し込み、消化酵素と腸内微生物によって土壌化したものに根を張って養分を吸い取り、外気を取り込んだ袋に樹状の毛細血管を張り巡らし呼吸する「動く植物」である


藤原辰史『植物考』(生きのびるブックス、2022年)※以下引用全て、同書より

 

植物の炸裂、人間の植物性。

 

 ――というわけで今回は鳥の本ではなく、植物の本です。
 著者は農業史、食の思想史が専門の人文系研究者の藤原辰史さん(京都大学准教授)。本書は、《人文学の視点から植物とはなにか、植物と人間とはとはこれまでどのような関係にあり、またどのような関係を作りえるのかについて、歴史学や文学や哲学を横断しつつ、考え》るという、一連の思索をまとめたものです。
 植物と人間の違い、から始められる論考はその端緒から、上述の体内調整機構にみる人間の「植物性」や、「歩く植物」としてのガジュマル、カレル・チャペックの『園芸家の一年』を引用しつつ春の芽吹きに植物の「炸裂」を見るといった、植物-動物-人間の垣根をクロスオーヴァーしていく思考の過程がスリリング。

《ヒトは怪我で器官を失ってしまうと元通りにはならないが、植物であればまったく問題ない。そもそも植物は新たな器官を作り続け、古い器官を使い捨てているのだから。》*1《人間は、太陽光と水を用いてエネルギーを生み出したり、そのエネルギーを用いて大気中の二酸化炭素をデンプンなどの有機物に変えたり、動植物の生命活動に必須の酵素を大気中に放出したりすることができない。だが、ほとんどすべての植物にはそれができる。》

 というような彼我の違いを超えて、植物の「植物性」を、<植物の知性><大気のクリエイター><植物の根は頭である(アリストテレス)><「生殖の舞台装置」としての花>――といったキイ・ワードで解き明かしつつ、《根も葉もない世界に人間はすっかり疲弊している》、その人間観の一新を植物に求める考察の果て。次のようなくだりの出てくるのをみつけて、バーダー(野鳥観察愛好家)の端くれであるわたしは小躍りします。

 

 では、人文学的課題として、私たちは葉をどのように語ることができるのか。ここでもまた、イタリアの植物の哲学者、コッチャの語りに耳を傾けてみよう。

 

《ゆるぎなく、不動のまま、大気と渾然一体となるまで大気現象に晒される。中空に宙づりになり、いかなる努力も要さず、筋肉ひとつ収縮させる必要もないままに。飛翔できなくとも鳥となること。葉とは、いわば陸地を征服したことへの最初の大きな反動、植物の陸生化がもたらした大きな帰結、そして空中生活への植物の渇望の表れであるかもしれない。》*2

 

「飛翔できない鳥」という表現は、ちょっとカッコ良すぎる感が否めないが、詩のような印象的な言葉である。思えば、これだけ薄くて広い器官を作ることができる動物は、鳥くらいかもしれない。

 

「初めて会った人なのに昔から知っている気がする」ように。

 

 元来筋金入りのインドアラーで、昨年中学生になった長男とともに五年前に野鳥の会に入会するまで、運動や野外活動の類はほとんど何もしてこなかったくらいのわたしですが、ここ一年くらい、だいたい月一回のペースで山に登っています。とはいえいつも同じ、紀南の霊峰・高尾山。高尾山は標高606メートルの比較的低い山ですが、登山好きや周辺地域の方にはよく知られているように、山頂への主要なアクセスルートである奇絶峡からの登山道は、低山とはいいながらなかなかの急勾配です。
 この一年でそれなりに体力はついたものの、できるだけ荷物は軽くしたいので、野鳥用のカメラは持参せずに登ることが多いのですが、それでも季節ごとに、様々な鳥が見られます。手もとのメモというか日記によれば、昨年の十月には、コガラの群れに出会ったと書かれています。とはいえ、
「コガラ見た、高尾山で。」
 と息子に言ったら、
「コガラ?」と疑問形で返されて、高尾山で声だけではなくちゃんと姿を見たのは初めてだった、ということもあって、すぐに自信がなくなる自分の野鳥鑑の未熟さはちょっと恥ずかしいくらいですが、わたしがそれ以上に疎いのは、植物、草木について。
 それこそ長男と自然観察会に足繁く通うようになって、専門家の先生方や諸先輩方にたくさん教わりつつも、草木の種類や特徴など、なかなか知識として定着しません。山に登っていれば、珍鳥に会えなくとも、足元でも眼前でも、多種多様な植物に出会えるというのに。

 

 しかし本書『植物考』を読むことでわたしたちは、ヒトと生きものたちの距離よりも繋がり、違いよりも似ているところ、同じところ――仮にそう見えるだけだとしても――そんなことを意識できるようになる、ちょうど著者の藤原辰史さんが、

植物について考えることは、初めて会った人なのに昔から知っている気がすると錯覚する、あの感覚に似ている。

 とこの本の締め括りに記しているのは、そのことを証しするかのようです。

 

植物考

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【以前の記事から:「世界の雑貨化」と野鳥の関係。】

ブックレビュー“読む探鳥”:三品輝起『雑貨の終わり』――夜空のカラス、野球場のツバメ、わたしたちの近未来。 - ソトブログ

 

【野鳥に関する本、映画等についてのレビューを、シリーズ「読む探鳥、観るバードウオッチング」としてカテゴリーにまとめました。】

 

【当ブログの読書および野鳥観察についての記事一覧はこちら。】

*1:※『植物考』本文中にある、図録『特別展 植物――地球を支える仲間たち』における植物学者、池内桃子によるテキストより。

*2:※エマヌエーレ・コッチャ『植物の生の哲学――混合の形而上学』(嶋崎正樹訳、山内志朗解説、勁草書房、2019年)からの引用。『植物考』本文中では、文頭二字下げにより引用を表しています。