ソトブログ

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日々のレッスン #019――わたしである彼女との対話。

 

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写真はイソヒヨドリ(2023.2.5、梅の里オートキャンプ場/和歌山県)

 

 キャンプ場ではイソヒヨドリが、おそらく薪に加工されるのだろうか、サイトの端に整然と積み上げられた丸太のてっぺんで、二月とは思えない陽気を感じて日向ぼっこをしているような風采で寛いでいる。寛いだ心地でいるのはわたしで、だからわたしにはイソヒヨドリが寛いでいた

 なんでもない/なんてことのない白いシャツを着ているのに、それがコム・デ・ギャルソンである、しかもそれが滅茶苦茶似合っている、わたしだった彼女はそうなりたいと思っていた。なんならなれると思っていた。
 けれどいま、わたしの着ているスタンドカラーの白いシャツは、ファストブランドのものだ。例えば他をコストカットして、シャツに資本投下を集中させれば(というほどの財産はないが)、わたしにだってコム・デ・ギャルソンが買えないわけじゃない。たぶん。

――でも実際、そういうことじゃないんですよね?
「そうなんです。そんなふうにして、お金がないのにかけるところにだけかけて、恰好いいっていう人もいるにはいると思うんです。あんまり現実にお見かけしたことはないですけど。」

自分に語りかける時も敬語で*1
 たしかそういうタイトルの本があって、読んではいないのだが、というよりその文句から想起される感じ、わたしが感じているそれが好きすぎて本そのものは手に取れないでいる、その本、そのタイトルに影響されてわたしはわたしと対談している。インタビューみたいなものだ。
 かつて人類は、自己の内言(心の声)を他者のものとして聞いたという――これも聞きかじりだけれど、だからキリスト教やイスラム教やその他、世界宗教、原始宗教の教祖や預言者たちは神の声を聞いたのだ。

――そんなこと、聞きかじりで断言していいことじゃないでしょう。
「ですよね。本当にごめんなさい。しかも、今は白いシャツの話でした。コム・デ・ギャルソンの。」

 

 白いシャツが似合う彼は――偶々わたしが先日、見かけたのは男性だった、シャツの上はややふわっとした見ごろのVネックセーターで、左胸のロゴでそちらはヴィヴィアン・ウエストウッドだとわかる。やっぱり恰好いい。わたしだった彼女がなりたかった大人だった。突然わたしは思い出した。郷愁ではないが、いま現実に抱いている欲望とも違うものだった。
 わたしはわたしを惨めに思っているわけじゃない。卑下しているわけでもない。わたしはわたしの白いシャツに、毎回アイロンをかけ、折り目を正してそれを羽織る。たまにミスって、その折り目もずれてしまうが。
 わたしの着ている白いシャツのファストブランドがそのサプライチェーンにおいて、ダイバーシティに逆行する行為、マイノリティから搾取するような行為を、(恒常的に)行っているかもしれないことを考えないわけではない。コム・デ・ギャルソンやヴィヴィアン・ウエストウッドがどのような態度を取っているのかも、まだ調べていない。それはわたしの怠惰。
 しかしそういうこと、代名詞が指示する内容を取り違えられることは本意ではないので、その「そういうこと」が何を指すかを明確にしておくと、

個人がモノを買うときに、ダイバーシティに反する行為、マイノリティから搾取するような行為がプロダクトの生産過程で行われていないか確認した上で、購入するかどうかの意思決定をすること。

 ――それはすぐに当然のこととなるだろう。あるいは、すでにそうなっていなければならない。だろう、なんて他人ごとのような謂いはなにごとか。しかしあるいはだから、わたしが偶々見かけたコム・デ・ギャルソンの白いシャツの男性によく似た著述家を最近知った。というよりその方を知ったから、その方によく似た男性をわたしは見かけたのだ。著述家であり医師であるその方曰く、

「~しなければならない」という価値判断は<あたま>、すなわち脳がするもので、あたまがする判断は、わたし/あなただけの狭い価値観を優先するものである。という趣旨のことを、著作で語られている。<あたま>を優先させるのではなくて、わたしたちの<こころ>や<からだ>が自ずから発しているサインに耳を傾ける必要があるのです――と。
 いずれも稲葉俊郎先生(面識はないが、あるわけないが、あえて<先生>と呼ばせていただく)の、『からだとこころの健康学 NHK出版 学びのきほん』(NHK出版、2019年)を読んで、わたしなりのことばに言い換えてみたものだ。ニュアンスや主旨が変わっているとしたら、わたしの責任だ。もしわたしのこの手記を読まれる方があったなら、ぜひ原典に当たっていただきたい。
「~しなければならない」という思考の型は端的にいって、人を不幸にする。わたしのはただの経験則になってしまうが、わたしにとってはそうだった。

 

――《ユウちゃんと、カズちゃんと、たき火をしました。/家で二回れんしゅうして、キャンプじょうで本ばんをやったので、たき火はせいこうでした。》ってチャーちゃんが宿題の作文で、書いていましたよね。
「そうそう。でもその書き出しと終わり、二つの文のあいだにあって、いちばん可笑しかった個所は、
たき火でウインナーをやいたら、一しゅんでこげました。ユウちゃんがこげをとってくれたので、こげていないところを食べました。
 っていうところだったんです。」
――チャーちゃんのいう成功には、<ウインナーが一瞬で焦げてしまった>っていう失敗も、包摂されているんですよね。
「それが嬉しくて。でもチャーちゃんにそのことをいったら、『――じゃあユウちゃんがへたくそでユウちゃんにはだいしっぱいだったけど、ぼくはおいしかったので、たき火もあったかくて、だからせいこうでした。って書きなおしといてあげるわ。』だって。」
――でも侑子さんは、最初の書きぶりのほうがいいと思っているでしょう?
 わたしであるところの彼女はいったが、わたしもその通りだと思った。
「元の作文は、たき火の成功と、ウインナーの出来・不出来がチャーちゃんのなかで接続されていないところがよくて。」
――たき火の成功は練習の成果という因果律の俎上にあるけれど、そのこと自体はそもそも悪いことじゃないんです。だけど、ウインナーとたき火は繋がらない方がいいですよね。

 

 何もかも説明され尽くされないこと
 それに料理の本質は、食べられないものと食べられるものに材料を分別し、食べられるものを調理して生きるのに必要な栄養を得ることである。おいしいとかおいしくないというのは副次的なもの、付随的な価値に過ぎない。
 おいしさにこだわり過ぎること、それを過剰に重んじることは、料理の作り手に不必要な十字架を背負わせることになる。
 今読んでいる土井善晴先生の本*2には冒頭には、大意こういうことが書かれている。こういう語彙で書かれているわけではない。土井先生の書き方は、もっと優しい。やはり主旨やニュアンスが曲がってしまっているとしたら、その責はわたしにある。

 

 わたしは以上のことを、わたしであるところの彼女と、わたし自身との対話として話し合ったが、その週末の午後、ハジメちゃんやしおりさんと話したのは、稲葉俊郎先生の本と、土井善晴先生の本がどちらも「NHK出版 学びのきほん」というシリーズの一冊であって、「学びのきほん」みたいなシリーズは、自分の狭量な世界観を拡げたり、問い直したりするのにとてもいいもの、端的にいって便利――便利、というといやしい感じがするけれど、わたしという彼女にスイッチを入れてくれるテキスト=教科書みたいなものだ。ということだった。
 それからしおりさんからもハジメちゃんからも、お勧めの本を一冊ずつ、教えてもらった。本にとって、本を読むわたしにとって、わたしである彼女にとって、「それを買う理由」が自分のなかの臓腑に落ちていることは、それを読み始めることと同じかより以上に、大事なことだ。

 

学びのきほん (@manabinokihon) / Twitter

 

 

シリーズ「日々のレッスン」について

日々のレッスン」は、フィクションと日記のあわいにあるテキストとして、不定期連載していくシリーズです(できれば日記のように、デイリーに近いかたちで続けていけたら、と考えています)。また、それにApple Musicから選曲した<野鳥音楽>プレイリストを添えた「日々のレッスン ft. Bird Songs in Apple Music」を、月1、2回のペースで更新しています。

 

【日々のレッスン・バックナンバー】

 

【本連載「日々のレッスン」の前作に当たる拙著・小説集『踊る回る鳥みたいに』、AmazonSTORESとリアル店舗(書店その他)にて発売中です。】

*1:※秋田道夫『自分に語りかける時も敬語で』( 夜間飛行、2022年)

*2:※土井善晴『くらしのための料理学 NHK出版 学びのきほん』(NHK出版、2021年)