ソトブログ

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日々のレッスン #018――<わたしの琴線の50分の一>

 

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写真はシロガシラ(和歌山県某所)、2023.1.22

 

「〝正義は制度化された商品の平等な分配という意味にまで下落している〟――こんなふうに的確なことばっていうか、いま自分が感じていて抱えている想いのカタマリが、精密に言語化されているのを読むと、何ていうか、幸せだよね。」
 といったのはわたしだった、聞いていたのはいつものようにしおりさんとハジメちゃん――それは昨日のことで、わたしは自転車を無軌道に走らせながら、わたしはアタマのなかに、というより肚の底で、色々なことばや想いを反芻している、それはいつものことだが、今の仕事に就いて通勤はクルマになったから日常的に決まった時間に自転車を走らせることはなくなった。
 そういう生活の習慣の異同は大きい。耳にはイヤフォンも刺さっていて、そこからはラジオの音声も流れているけれど、それが録音したものやポッドキャストなのか、リアルタイムで放送されているものなのかという違い以上のものに、それを自転車で聴くのか、クルマで聴くのか、毎日毎週同じタイミングで聴くのか、不定期なのかといったことが――わたし個人の生活にとっては感じられる。

 

 今日は母がカズヒコとチャーちゃんに夕飯を食べさせてくれていて、わたしはこんな夜に、自転車に乗っている。無軌道といっても自宅から数キロ先の書店兼レンタルビデオ店がなんとなく目的地に定まっていて、それを決めたのは走り出してからなのか、家を出る前なのかわたしにももうわからない。寒いさむい冬の夜風が(今日は)気持ちよく感じられて、
「これ、毎週〇曜の夜のルーティンにしたいな――、」
 という気持ちが、漕ぐ足が距離を稼ぐほどに大きくなってくるのをわたしは感じている。そのわたしはここ一年くらい日記を毎日書いている、というのは今書いているこれ(手記)ではなくて純然たる日記で、日記に「純然たる」なんてことばが当てはまるのか、不純な日記があるとしたらどういうものなのか知らないが、ここでいう「知らない」は関西人一般の用例としての、「知らんけど」ではない。

 

「そういうところだよ、侑ちゃん。」
 とハジメちゃんがいった、
「けどさ、日記ってどういうわけか、<神聖視>されてるみたいなところ、ない? <続けたいけど続けられないもの>の代名詞みたいなところ。」
「変だよね。わたし、書こうと思ったことないけど。」
 というハジメちゃんの言い分は彼女らしくて大好きだけれど、友人に対する予断ってのも何なんだろう? と思う。
 自分のこと、(家族や友人まで含めた)他の人のこと、人と人とのあいだのこと、つまりは人間のことは不確かすぎる。
 それでわたしの日記には、

「〇時〇分起床。朝、ヤクルト。トースト、ゆでたまご、コーヒー。仕事〇時~〇時半。〇時〇分帰宅。夜、とり照り焼き丼他。ストレッチ、ヨガ(骨盤・腹筋・肩と背中)。読書。アニメ(『はたらく細胞』)観始める。」

 ――大抵こんなふうに時系列に並べただけの事がらが書かれている。「事がら」も書いていないものの方が多いかもしれない。わたしがいった、
「〝正義は制度化された商品の平等な分配という意味にまで下落している〟――こんなふうに的確なことばっていうか、いま自分が感じていて抱えている想いのカタマリが、精密に言語化されているのを読むと、何ていうか、幸せだよね。」
 というのもいま引用した箇所の日、しおりさんとハジメちゃんに話した前の日、だから一昨日にイヴァン・イリイチ『コンヴィヴィアリティのための道具』を読んだ感想の一部なのだけれど、日記にはただ「読書」と書かれているなかにその感想は含まれているし、翌日、だから昨日の日記の「しおりさんとハジメちゃんと新年会(お茶会)」と書かれたなかに含まれている。
 しかしそれもわたしの『コンヴィヴィアリティのための道具』の読書体験のごく一部に過ぎない。わたしは(前にもここに書いたと思うが)読書の際に気になった/琴線に触れた箇所に付箋を貼ることになっていて、最近はだいたい一冊当たり付箋50枚は下らないことになっているから、引用して喋った箇所は単純にいって<わたしの琴線の50分の一>。ということになるが、〝正義は制度化された商品の平等な分配という意味にまで下落している〟はフレーズとして記憶できる長さとインパクトがあるから喋れただけで、ほとんどの付箋を貼った箇所は――わたしの<琴線的まとまり>は、もっとずっと長くて、本を持ち歩いてページを開いて音読しなければ誰かに開陳することはできないし、そんな機会はほとんど起こりえないし、しようとも思わない

 

 

 詩人や道化はつねに、独断的教義による創造的思考の抑圧に反抗してきた。彼らは隠喩を持ちいることによって、想像力の欠如をあばく。彼らはユーモアを用いて深刻ぶりのばかばかしさを見せつける。彼らの心からの深い驚きは、確実なものをぐらつかせ、恐怖を消し去り、麻痺を解く。予言者は独断的信条を公然と非難し、迷信をあばき、人々が知力と正気を生かすように仕向ける。詩や直感や理論は、自覚における革命につながる知恵に逆らって独断的教義が進展していることを暗示することができる。政治的行動から、教会や政府および強制的知識を切り離すことによってのみ、学習のバランスは回復することができる。法律はこういう目的のために用いられてきたし、ふたたび用いることもできる。

 

イヴァン・イリイチ『コンヴィヴィアリティのための道具』(渡辺京二・渡辺梨佐 訳、ちくま学芸文庫)より

私たちは消費者社会で富裕になればなるほど、余暇と労働の両面でいかに多くの価値の等級をよじのぼってきたかということを、いっそう鋭く意識するようになる。ピラミッドに高くのぼるほど私たちは、ただたんに何もせずのんびりしていることや、明らかに非生産的な目的追求に時間を投げ棄てることができにくくなる。近所の鳴鳥を聴くよろこびは、「世界の鳥の歌」と銘打ったステレオ録音のレコードによってたやすくくもらされてしまうし、公園での散歩はパッケージ化されたジャングルへのバードウォッチング・ツアーの予行演習までたやすく格下げされてしまう。あらゆる社会的関与が長期間にわたるものになるとき、時間を節約することはむずかしくなる。


前掲書より

 

生命学(biology)は、普通「生物学」と訳される。この言葉は、医学ではあまりに〝生「物」(もの)学〟でありすぎる。さらにヒトを中心に据え、あたかもヒトの身体が特権的であるかのごとき生命学が医学である。人間の治療を目的とする学の存在の権利を奪うつもりはないが、広大な生物たちの文脈の中に据え直す必要がある。私達医者は空気が一方に流れる鳥類の肺が、往復運動を必要とする哺乳類の肺よりすぐれていることを忘れがちである。鯨類が数十分を無呼吸のままで海中に過ごしうることを閑却しがちである。彼らにおいては、その筋肉のミオグロビンに酸素が結合することによって、この奇跡が実現されるのである。

 

中井久夫『治療文化論 精神医学的再構築の試み』(岩波現代文庫)より

 病者と非病者とは、対をなす概念ではないことを強調したい。病者が「有徴者」(印のついたもの the marked)であるのに対して、非病者は無徴者であるから、「非病者」という否定的表現しかできないはずであって、「健常者」ということばはおかしい。ただ、ここでのみ、この表現を意図的に誤用して、「健常者症候群」とでも言うべきものを抽出しようとした。もっとも無徴者の「病い」ということは定義によって言いえず、したがってここでは点線を用いている。

 

前掲書より

 

「<これから読む本が一番面白い>っていうコンセプトなのね。」
「読む前に紹介しちゃうんでしょ。」
「本は自分のなかに買う理由があるから買うわけ。
 買ってみたってのはつまり、自分が知っていることがここまであって、この本には知らないことがある――その続きとして知らないことがあるかも知れない、っていうところで買うわけだから。」

 

 本屋兼ビデオ屋には入るには入ったが今日は何も買わなかった。帰り道にラジオからYouTubeに切り換えて聴き始めたら、こんな会話が耳に入って来た(blkswn radio「佐久間裕美子さんと本屋lighthouseへ|黒鳥本屋探訪〈これから読む本が一番面白い〉第1回 前編」)。
 うんうん。激しく同意。すぐにでも誰かに、というかしおりさんとハジメちゃんに話したい――そう思えるのは彼女たちが、個人的に肚落ちしなかったとしてもわたしの話を<分かってくれる>、という予断があるからだ。やっぱり何か買えばよかったか。

 

 帰ってきたらチャーちゃんは母と一緒に寝ていて、カズヒコがリビングで勉強をしているのかYouTubeを観ているのかそれらを同時にしている風情の隣りで、母の作ってくれたシチューを温め直して啜りながら、ふだんはやらないのだが、「自分の日記の読み返し」をしてみると、やっぱり書いているのは日々のルーティンばかりで、イレギュラーなことのほうをおそらく意図的に書き落としているように見える。

 

「『ように見える』って、自分で書いているんでしょう?」
 というのはしおりさんの突っ込み。動作に無駄な要素の少ないしおりさんが、珍しく器のなかで溶けかかったアイスクリームを、スプーンでくるくる手慰みのように引っかき回していた――ほら、それもまたわたしの予断だった。
「そんなことよりとにかく、今は中井久夫先生なんですよ。学部は違うけれど、わたしが通っていた頃に同じ大学に中井先生がいたなんて、わたしなんて一方的に先生の著作を読んでいるだけの人ですけど――、だけどいま、中井先生が何十年も前に書かれたことに救われる気持ちになったり、<同じ大学>くらいの繋がりを貴重なことに感じられたり、本読みの愉しみって、そんな些細なところにあるっていうか、それが全部っていってもいいですよね。」
「そう、思えることがね。」
 しおりさんは手を止めて、いつもそうするように、相手の、今はさしむかいのわたしの眼を見つめながらいった。

 

 

シリーズ「日々のレッスン」について

日々のレッスン」は、フィクションと日記のあわいにあるテキストとして、不定期連載していくシリーズです(できれば日記のように、デイリーに近いかたちで続けていけたら、と考えています)。また、それにApple Musicから選曲した<野鳥音楽>プレイリストを添えた「日々のレッスン ft. Bird Songs in Apple Music」を、月1、2回のペースで更新しています。

 

【日々のレッスン・バックナンバー】

 

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