ソトブログ

文化系バーダー・ブログ。映画と本、野鳥/自然観察。時々ガジェット。

ソトブログ

日々のレッスン #006「岬の先端まで辿り着いて、鳥ならば飛べもしよう。」

 

この記事をシェアする

 

 ずいぶん以前に、ミサキ(ミは接頭語)のサキ、あるいはサクという言葉には、目の前でどんどん展開していく景色、新しく開けていく状況、というような意味がある、と何かで読んだことがある。咲くにしても、裂く、にしても。大地が裂けて、新しい芽吹きが展開するような、そういう変化に富んだ先端性のようなもの。目的のために押し進められる力。
 さきへ、さきへと岬の先端まで辿り着いて、鳥ならば飛べもしよう。魚ならば泳ぎもできよう、けれど人は、そこからどこを目指すのか。岬に辿り着いた人は、一様にしばらく声もなく呆然と海の彼方を眺める。


梨木香歩『鳥と雲と薬草袋/風と双眼鏡、膝掛け毛布』(新潮文庫)より

 

「本読んでてさ、ここ、この文!って――そこで感じた気持ちを誰かとシェアしたい、話したいって思うじゃない。」
「あるよね。でも本じゃなくても、映画とかでもあるし、そういうことじゃなくても、あるでしょう?」
「そうなんだけどさ――、」

 

 今日はわたしがしおりさんにタメ口になっていた。しおりさんはわたしの同級生で親友!と中学生の頃から思い続けているハジメちゃんのお姉さんだ。今日はしおりさんとわたしとふたり、オンラインとはいえさしむかいだからかもしれない。一対一の関係というのは三人以上の<集まり><集団>とは親密さも距離感も、絶対的な違いがあるもので、わたしはそれは<別次元のこと>だと思っている。
 いつかだれかの本で、「好き」という気持ちは一種類しかない、英語でいうLoveもLikeも本当はおんなじで、近づきたい気持ちと離れたい気持ちのうち、近づきたい気持ちが「好き」なんだ。というのを読んだことがあって、その本(たしか小説だった)では、ある人(A)が友人Bに、そこにはいない、Aがレンアイ感情を抱いているCの気持ちを、「Cはぼくのことをどう思ってるかな?」と相談というか質問というか確認するのだけれど(それに対してのBの回答が「好きは一種類」だ)、わたしはさしむかいの状況や関係が好きだし、しおりさんが好きだ。

 

「でもほとんどの場合――本の場合ってことね、そのときの気持ち、そのときの<感じ感>はだれとも共有できずに終わるんだよね。」
「あなたは、それが好きなんでしょう?」


 と、アクセントは疑問形だけれど、しおりさんははっきりと断定的に、しかし肯定的に聞こえるトーンでわたしの目を見て言った、PCのインカメラ越しにわたしは見つめ返したけれど、先に逸らしたのはわたしのほうだった。わたしの視線はしおりさんの、広めにデコルテの開いたオフホワイトのカットソーから覗く左の鎖骨から胸のワンポイントへ流れて――赤い色の鳥の羽の刺繍が施されていた――、それを見ながらわたしは言った、


「それは確かにそうで、わたしはひとりが好きだし、そのことに慣れてもいるし。ただ、日々それを繰り返してると、読んでいるあいだだけ、そのセンテンスを読んでいる瞬間にだけ浮かんだ気持ちが、日々の泡みたいに消えてくみたいに、わたしだけじゃなくて世界じゅうの人の瞬間瞬間の思いはどこにもキロクされずに消えてくんだよな、って。」
「うん。それもさ、わたしにはいいことに聞こえるよ。」

 

 その声は神を信じないわたしにも恩寵のようだった。外はまだ明るくて、でも台風が近づいてくるときの湿った風が回っているのを、その匂いまで、窓を閉めていても伝わってくるようだった。

 

シリーズ「日々のレッスン」について

日々のレッスン」は、フィクションと日記のあわいにあるテキストとして、不定期連載していくシリーズです(できれば日記のように、デイリーに近いかたちで続けていけたら、と考えています)。また、それにApple Musicから選曲した<野鳥音楽>プレイリストを添えた「日々のレッスン ft. Bird Songs in Apple Music」を、月1、2回のペースで更新しています。

 

【日々のレッスン・バックナンバー】