ソトブログ

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日々のレッスン #008――「喋らない人間」だから。

 

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 邪道も邪道だと思うけれど、わたしの耳にはイヤフォンが入っている。夏を挟んで、四ヶ月ぶりの山登り。「山登り」といってもわたしが登るのはいつもこのT山、標高六〇六メートル。いつもひとりで。たまにカズヒコと。
 ソロハイクといえば聞こえはいいが、山を歩きながらわたしはポッドキャストで人のお喋りを聴いている。今日はお喋りというより、『メディアの終わりの人類史』という哲学者による講義みたいなものだ。

 

 わたしは『水曜どうでしょう』というテレビ番組が好きだ。あの最高にくだらない、エクセルシオールに面白い番組を臨床心理士で大学の先生の著者が分析した、『結局、どうして面白いのか』という本があって、それがまた最高に面白いのだが、その本に書いてある通り、『どうでしょう』の面白さを見ていない人に伝えるのは難しい。
 しかしそのことに、この本自体は成功しているのであって、『結局』はすごい本だ。ぜひみんなに読んで欲しい。みんな、って誰だっけ?

 

 わたしがポッドキャストのような(ラジオのこともある)他人のお喋りを聴きながら山に登るのは――身体とアタマを切り離すことで、身体の疲れを吹き飛ばせるという面もあるが――、わたし自身が、「喋らない人間」だからだ。
 L・M・Tなんていってハジメちゃん、しおりさんと月一、二回くらい集まってお喋りしているけれど、わたしは思っている三分の一も喋っていない自信がある。三分の一、というのは具体的・定量的なものではなくて感覚的なもの、単なる実感だ。
 わたしは友人のSSWのバニーくん(バニー・ウェイラーから拝借した二ツ名らしい)に訊いてみたいのは、
「さァ、曲を作るぞ。」
 といって自室やスタジオに籠って曲を作るのではなくて、何にもないとき、わたしがこうして山に登っているときみたいに、別のことをしているときに、ふと。という感じで曲が、その一部分やメロディーやコード、気の利いたリフみたいなものが思い浮かぶ、なんてことがあるかどうか? ということだ。


 わたしは山を登りながら人の会話を聴いていると、「話したい」ことがアタマに浮かんでは消えていく、あるいはコップに水が溜まるみたいにして増えていき、やがてこぼれていく。そのなかに、すごく話したかったはずのこともあるけれど、忘れてしまったものは、「そういうものだ」と思うしかない、山頂に辿り着いて、適当に座り込んだらすぐにノートを開き、まだコップに残っていることどもを書きつけている。それでも話せることは三分の一だ。
 だからこんなふうに、わたしはそれを搔き集めてまとまった文章を書くようになった。以来、「みんなに読んで欲しい」なんてそんなアテはないのに、思うようになったのだ。

 

 しかし、何だかわからないが面白いということになると、それを理解して忘れ去ってしまうことができない。いわば、わからないものは消費することができないのです。そして「水曜どうでしょう」は、「わかりにくい」ということがわかりにくく作られています。そうすることで、とてもわかりやすいことをやっているように見えるのです。
(中略)
 このように、何かとかかわりを持ち続けるためには、そのことに対して「わからない」ということが一つの原動力になるのです。しかし、われわれは一方で「わからない」という状態がとても苦手です。わからないものをそれと知りつつ抱え続けることは苦痛を伴います。しかし、「水曜どうでしょう」では「わかりにくい」ということそれ自体がわかりにくく、一見わかりやすく感じられるので、この「わかりにくいもの」と負荷なくつきあうことができるのではないでしょうか。


佐々木玲仁『結局、どうして面白いのか 「水曜どうでしょう」のしくみ』(フィルムアート社)

 

シリーズ「日々のレッスン」について

日々のレッスン」は、フィクションと日記のあわいにあるテキストとして、不定期連載していくシリーズです(できれば日記のように、デイリーに近いかたちで続けていけたら、と考えています)。また、それにApple Musicから選曲した<野鳥音楽>プレイリストを添えた「日々のレッスン ft. Bird Songs in Apple Music」を、月1、2回のペースで更新しています。

 

【日々のレッスン・バックナンバー】

 

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