ソトブログ

文化系バーダー・ブログ。映画と本、野鳥/自然観察。時々ガジェット。

ソトブログ

日々のレッスン #010――それでコガラが去ると、どこかからアジサシ類がやってきて、「なすがままに、なすがままに。」と聴こえるように鳴いて飛び去っていった。

写真はセグロカモメ(2020.2、和歌山県某所・漁港)

 

 それでわたしは山に登りながら――あれは下りだったか、コガラの群れに出会ったことを忘れていた。久しぶりの山で体力が不安で、荷物を減らしてカメラも双眼鏡も持って行かなかった。ジジジ、と地鳴きらしい鳴き声が方々から聴こえてきて、そのうちの一羽はわたしの目の前の横枝に止まった。ツツピー、のシジュウカラやツピンツピンのヒガラとは異なるさえずり。あとで確認した図鑑には、「ツチョツチョツチョ」と書かれているその声を聴いた気がするし、それら他のカラ類とは違って喉の黒いネクタイ模様はなくて、喉からお腹にかけて白いコガラの姿態はとりわけつつましく、かわいらしく思えるわたしの感性は安易というかステレオタイプだけれど、ひとりの記憶だからか、帰ってからカズヒコに、
「コガラみた、T山で。」と言ったら、
「コガラ?」と疑問形で返されたときにもう自信がなくなっていた。T山で声だけじゃなくちゃんと姿を見たのが初めてだったから、というのもあるけれど。T山に登り始めて夏のブランクを除いて半年、それも月一回くらいのハイクでその場所で会いたい鳥に全部会えるなんて思うほどわたしは野暮じゃないけれど、コガラくらいでも――「くらい」なんて言いかたはコガラに失礼なのは承知だれどこれ以上、エクスキューズを重ねていたらこのメモの文章もわたしの脳内もコンランしてしまう――、カズヒコの野鳥脳がなければ確信をもって観察できていないのは我ながら情けない、と思う。野鳥の会の会員の名が廃る。


 それでコガラが去ると、どこかからカモメがやってきて――これも違った、アジサシ類がやってきて、
「なすがままに、なすがままに。」
 と聴こえるように鳴いて飛び去っていった、というのがわたしがカズヒコにその日そのあと喋ったことだが、
「山にアジサシいないじゃん。」と一蹴された。
「通っていったんだよ。」
「ウソとか冗談ならせめてホトトギスみたいなトケン類にしとけばいいのに。それか『気がつくといきなり目の前をヤマドリが歩き去った。』とかさ。」
 というカズヒコの言い分にも彼の願望が入っているのがおかしかった

 

 表紙の写真は、初代『ケンブリッジ・サーカス』と同じく、木原千佳さんがリバプールの街角で撮った写真である。「あの標識にとまっているカモメが飛び立つところを撮りたい」と木原さんが言って、みんなで固唾を吞んでカモメの飛翔を待ち、やがてカモメがふわっと飛び上がって、すかさず木原さんがシャッターを押して全員が喝采した、あの瞬間の爽快さはいまも覚えている。人生のたいていのことがああいうふうに上手く行けばいいのにな、とときどき思う。

 

柴田元幸『ケンブリッジ・サーカス』(新潮文庫、2018年)「文庫版あとがき」より。

 

シリーズ「日々のレッスン」について

日々のレッスン」は、フィクションと日記のあわいにあるテキストとして、不定期連載していくシリーズです(できれば日記のように、デイリーに近いかたちで続けていけたら、と考えています)。また、それにApple Musicから選曲した<野鳥音楽>プレイリストを添えた「日々のレッスン ft. Bird Songs in Apple Music」を、月1、2回のペースで更新しています。

 

【日々のレッスン・バックナンバー】

 

【本連載「日々のレッスン」の前作に当たる拙著・小説集『踊る回る鳥みたいに』、AmazonSTORESリアル店舗にて発売中です。】

日々のレッスン #009――「読み返したい本」のどこかのページを開き、書き写すのだ。できればノートに、手で(ペンで)。あるいはポメラでも、PCでも構わない。

 

 サブスクリプション・サーヴィスの動画をひたすらザッピングして結局、アン・ハサウェイの『ブルックリンの恋人たち』(2014年)を観返していた――何度も読み返したくなる本があり、いくらでも観返したくなる映画がある。そんなにたくさんはない。たぶん三桁はいかない。実際に読み返す、観返すものはもっと少ないか――続けてDVDで持っている、ジョナサン・デミ、2008年監督作の『レイチェルの結婚』。こちらも主演はアン・ハサウェイ。ジョナサン・デミは『ブルックリンの恋人たち』にも製作として名を連ねている。そういえば両作、雰囲気がよく似ている。物語や構成よりも、音楽や景色、世界が前面に出ている。レイヤーの順序がふつうとは違うみたいに。

 

 もちろんわたしはアン・ハサウェイに移入している、それが正しい観かただからだ(わたしにとってはそうだ、とわたしが信じているからだ)。
 何度も観返そうとして、読み返そうとして、いつも途中になってしまうモノも多い。だから物語の序盤だけに、妙に思い入れている作品が少なくない。どころか、(これはたぶん本だけだが)一度も読み通したことがなく、何度もなんども前半部、序盤、どうかすると序文や「まえがき」ばかり何度も読んでいる本がある。

 

 下手なカウンセラーもどきや宗教家もどきなら、
「あなたはいつも、人生をやり直したいのです。」「若返り願望の代償行為です。」「そんなことは無益です。」「なすがままに、なすがままに。」
 なんて言うだろうか? 通勤のクルマのなかでひとり沈思黙考していると、こんなふうにくだらない考えが浮かんでしまった。
 こんなとき、本より映画にアドヴァンテージがあるのは、映画は「画(え)」を思い出す、想いうかべることができるところだ。本は映画でいうひとまとまりのシークエンスくらいの分量=「文量」を、そのまま記憶できない。持ち運んで脳内で再生できない。小説ならまだ、映像に置き換えて思い出せるけれど、映像に置き換えたものはもとの小説ではない。人文書や科学系の読み物、評論・論文ならなおさらだ。

 

 だからこんな気分に陥ったらわたしは家に着いてすぐ本を開き、どれでも付箋をたくさん貼っている「読み返したい本」のどこかのページを開き、気持ちにいくらか余裕があるなら、付箋を貼ったそこを書き写すのだ。できればノートに、手で(ペンで)。あるいはポメラでも、PCでも構わない。書き写すことが重要だ。コピペじゃだめだ。わたしが下手な宗教家なら必ず、写経をさせるだろう。
 こんな話は誰にもしたことがないけれど、しおりさんならどんな顔をして、何ていうだろう? あるいは妹なら?
 ――そう思いながら書き写した、こんなふうに。

 

 私たちは自分の色や柄の好みを完全に説明し尽くすことができないし、まして好みを自分の意志でガラリと入れ替えることもできない。私が「私」と思っているものは、私の意志によって操作できないものの集合体なのだ。私は私の意志によってでない何かによっていつの間にか私が心地好いと感じるようになった音楽や風景に接することで、気持ちを和らげたりしているだけで、この一連の過程で私が主体的に関わることができているのは、特定の音楽や風景を選び出すという行為ぐらいのものだ。――このことをまず前提として理解しておいていただきたい。ただし、前もってことわっておくが、ここから私は「だから人間なんて小さなものだ」というようなネガティヴな議論をはじめるつもりは毛頭ない。私が考えようとしていることは、むしろそれゆえに人間が自由になれる可能性があるということだ。本章を含めてこの本の残り四章は、すべて〝人間の肯定〟〝人間の自由〟〝生と死のいまとは違った理解の可能性〟を目指して書いていくつもりだ。

 

保坂和志『世界を肯定する哲学』(ちくま新書、2001年)より

 

【本文中で言及した映画作品】

ブルックリンの恋人たち』Song One(2014年、監督・脚本/ケイト・バーカー=フロイランド)。アン・ハサウェイ好きのわたしの値踏みを割り引いても、下記『レイチェルの結婚』と並び、彼女の主演作でも最も好きな作品のひとつ。90分に満たない作品でテンションの低いストーリーなのに、音楽やブルックリンの街がひたすら魅力的。

 

レイチェルの結婚 CE [DVD]

レイチェルの結婚 CE [DVD]

  • デプラ・ウインガー
Amazon

レイチェルの結婚』Rachel Getting Married(2008年、監督/ジョナサン・デミ)。アン・ハサウェイは本作で第81回アカデミー賞主演女優賞ノミネート。

 

シリーズ「日々のレッスン」について

日々のレッスン」は、フィクションと日記のあわいにあるテキストとして、不定期連載していくシリーズです(できれば日記のように、デイリーに近いかたちで続けていけたら、と考えています)。また、それにApple Musicから選曲した<野鳥音楽>プレイリストを添えた「日々のレッスン ft. Bird Songs in Apple Music」を、月1、2回のペースで更新しています。

 

【日々のレッスン・バックナンバー】

 

【本連載「日々のレッスン」の前作に当たる拙著・小説集『踊る回る鳥みたいに』、AmazonSTORESリアル店舗にて発売中です。】

日々のレッスン #008――「喋らない人間」だから。

 

 邪道も邪道だと思うけれど、わたしの耳にはイヤフォンが入っている。夏を挟んで、四ヶ月ぶりの山登り。「山登り」といってもわたしが登るのはいつもこのT山、標高六〇六メートル。いつもひとりで。たまにカズヒコと。
 ソロハイクといえば聞こえはいいが、山を歩きながらわたしはポッドキャストで人のお喋りを聴いている。今日はお喋りというより、『メディアの終わりの人類史』という哲学者による講義みたいなものだ。

 

 わたしは『水曜どうでしょう』というテレビ番組が好きだ。あの最高にくだらない、エクセルシオールに面白い番組を臨床心理士で大学の先生の著者が分析した、『結局、どうして面白いのか』という本があって、それがまた最高に面白いのだが、その本に書いてある通り、『どうでしょう』の面白さを見ていない人に伝えるのは難しい。
 しかしそのことに、この本自体は成功しているのであって、『結局』はすごい本だ。ぜひみんなに読んで欲しい。みんな、って誰だっけ?

 

 わたしがポッドキャストのような(ラジオのこともある)他人のお喋りを聴きながら山に登るのは――身体とアタマを切り離すことで、身体の疲れを吹き飛ばせるという面もあるが――、わたし自身が、「喋らない人間」だからだ。
 L・M・Tなんていってハジメちゃん、しおりさんと月一、二回くらい集まってお喋りしているけれど、わたしは思っている三分の一も喋っていない自信がある。三分の一、というのは具体的・定量的なものではなくて感覚的なもの、単なる実感だ。
 わたしは友人のSSWのバニーくん(バニー・ウェイラーから拝借した二ツ名らしい)に訊いてみたいのは、
「さァ、曲を作るぞ。」
 といって自室やスタジオに籠って曲を作るのではなくて、何にもないとき、わたしがこうして山に登っているときみたいに、別のことをしているときに、ふと。という感じで曲が、その一部分やメロディーやコード、気の利いたリフみたいなものが思い浮かぶ、なんてことがあるかどうか? ということだ。


 わたしは山を登りながら人の会話を聴いていると、「話したい」ことがアタマに浮かんでは消えていく、あるいはコップに水が溜まるみたいにして増えていき、やがてこぼれていく。そのなかに、すごく話したかったはずのこともあるけれど、忘れてしまったものは、「そういうものだ」と思うしかない、山頂に辿り着いて、適当に座り込んだらすぐにノートを開き、まだコップに残っていることどもを書きつけている。それでも話せることは三分の一だ。
 だからこんなふうに、わたしはそれを搔き集めてまとまった文章を書くようになった。以来、「みんなに読んで欲しい」なんてそんなアテはないのに、思うようになったのだ。

 

 しかし、何だかわからないが面白いということになると、それを理解して忘れ去ってしまうことができない。いわば、わからないものは消費することができないのです。そして「水曜どうでしょう」は、「わかりにくい」ということがわかりにくく作られています。そうすることで、とてもわかりやすいことをやっているように見えるのです。
(中略)
 このように、何かとかかわりを持ち続けるためには、そのことに対して「わからない」ということが一つの原動力になるのです。しかし、われわれは一方で「わからない」という状態がとても苦手です。わからないものをそれと知りつつ抱え続けることは苦痛を伴います。しかし、「水曜どうでしょう」では「わかりにくい」ということそれ自体がわかりにくく、一見わかりやすく感じられるので、この「わかりにくいもの」と負荷なくつきあうことができるのではないでしょうか。


佐々木玲仁『結局、どうして面白いのか 「水曜どうでしょう」のしくみ』(フィルムアート社)

 

シリーズ「日々のレッスン」について

日々のレッスン」は、フィクションと日記のあわいにあるテキストとして、不定期連載していくシリーズです(できれば日記のように、デイリーに近いかたちで続けていけたら、と考えています)。また、それにApple Musicから選曲した<野鳥音楽>プレイリストを添えた「日々のレッスン ft. Bird Songs in Apple Music」を、月1、2回のペースで更新しています。

 

【日々のレッスン・バックナンバー】

 

【本連載「日々のレッスン」の前作に当たる拙著・小説集『踊る回る鳥みたいに』、AmazonSTORESリアル店舗にて発売中です。】

野鳥/映画/登山/アロマテラピー/そして日常――そんな小説集『踊る回る鳥みたいに』、リアル店舗展開中です。【書店編】

 

 当ブログでの連載に加筆・修正し書下ろし短編を加えた小説集、拙著『踊る回る鳥みたいに』。本書は、Amazonのセルフ出版サーヴィス「KDP=Kindle Direct Publishing」で制作・販売している作品です。
 とはいえ、わたしの暮らす南紀・和歌山を主な舞台(モデル)にしていることもあって、「地元の人に読んでもらいたい、そして和歌山に旅に来られた方に、和歌山だけで買える本として、手に取ってもらいたい――。

 

 出版後、そんな思いが芽生え、<書下ろしエッセイを掲載した小冊子を付録にした特別ヴァージョン>を作成し、紀南を始め和歌山県内の書店やショップでのお取り扱いをお願いして、ありがたいことに、徐々に取り扱い店舗も増えて来ました。今回はその、書店編。和歌山県の、北から南へ順番に、紹介いたします。どちらも本当に素敵な、わたし自身、大好きな書店さんです。

 

<紀北>海南市「OLD FACTORY BOOKS」

 

【OLD FACTORY BOOKS】ウェブサイト:https://teruakisukeno.jp/


 和歌山市の南に隣接する海辺の街、海南市。こちらは古くから工芸、とりわけ漆器の街として知られているのですが、「OLD FACTORY BOOKS」さんはその名の通り、昭和2年建造の「旧田島うるし工場」の建物を改装して運営されています。文化庁の登録有形文化財である建屋は赤レンガの内壁も非常に風情があり、クルマでは入りにくい細い路地のなかにあることもあって、まさに「ここにしかない場所」。

 

 店主はパートナーであるイラストレーター/絵本作家のすけのあずささん(左記リンクはすけのあずささんのnoteへ)とともに2年間の世界一周新婚旅行(訪れた国計50ヶ国!)をされたという助野彰昭さん。京都での学生時代足繫く通われたという、あの「遊べる本屋」ヴィレッジヴァンガード*1に強く影響されたと仰っていましたが、そんな読書体験と、ご自身の世界観のミックスされた選書・蔵書が魅力的な新刊/古書店です。

 

うみのハナ

うみのハナ

Amazon

すけのあずささんの絵本『うみのハナ』


 こちらでは自作のポップを書かせていただきました。わたしの手書き文字が下手過ぎて、読みづらい(読めない?)可能性もありますので、こちらに再掲させていただきます。

 

ひとりの女性、そのまわりの友人、家族――彼ら、彼女たちがわたしたちと同じように生きて、日々を過ごしている。本を閉じたあとも……。そのことだけを考えて、書いた小説です。音楽や映画やアロマテラピー、野球、小説。そのどれかが好きなら、あるいはそうじゃなくても、「いまここ」に暮らしているあなたなら、きっと愉しめる。そんな想いで届けたい、そう思っています。/著者・津森ソト

 

※OLD FACTORY BOOKSさんで書かせていただいた手書きポップより。

 

 

店舗情報:OLD FACTORY BOOKS(オールド・ファクトリー・ブックス)
https://teruakisukeno.jp/
和歌山県海南市船尾166

Open/金16:00~21:00、土10:00~17:00 
※詳細等は上記OLD FACTORY BOOKSさんのウェブサイトをご確認下さい。

 

<紀南>白浜町「ivory books」

 

【ivory books】ウェブサイト:https://ivorybooks.jp/


ivory books」さんは、初めて拙著『踊る回る鳥みたいに』の取り扱いを快諾して下さった書店さんとして、先日紹介させていただきましたが、こちらも元々は銀行だったという白壁の美しい建物をリノベーションされたお店。店主の中村美帆子さんは、拙著を個人的にもご購入下さり、その読後感を素敵な帯文&イラストにしていただきました。美帆子さんオリジナルの帯付き『踊る回る鳥みたいに』は、こちらでのみ購入できます。

 

 「ivory books」さんのInstagramでご紹介いただいた際のテキスト(下記参照)も感無量&我が意を得たりで、わたしが読書にまつわるポッドキャストを始めるきっかけにもなりました。

 

 
 
 
 
 
View this post on Instagram
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

A post shared by ivory books (@ivorybooks.jp)

www.instagram.com

 

店舗情報:ivory books(アイボリー・ブックス)
https://ivorybooks.jp/
和歌山県西牟婁郡白浜町1111-34御幸ビルディング1F
Open/11:00~16:00
Close/日・月・祝日
※詳細等は上記ivory booksさんのウェブサイトをご確認下さい。

 

<紀南>那智勝浦町「らくだ舎」

 

【らくだ舎】ウェブサイト:https://rakudasha.com/


 和歌山県那智勝浦町旧色川村という、那智勝浦の海辺の市街地からもクルマで30~40分ほど山道を登った里山にある、こちらもサイトスペシフィックな書店「らくだ舎」さん。というか、書店でもあり、オリジナルブレンドやシングルオリジンのコーヒー、地元産のお茶や自家製ジンジャーエールにサンドイッチ、鹿肉ハヤシライス(土曜日のみ)も愉しめる<喫茶室>、そして地元で暮らす皆さんに長年愛されてきたという地域のお店<色川よろず屋>も併設されています。

 

併設の「色川よろず屋」さんでは、野菜やお茶など、地域の産品も販売されています。


 書店でありながら、自由に本を読んで、借りることもできる<図書室>(販売の書籍とは別。寄贈もできます)や“自分のおすすめの本を1冊持ってきてもらうと、置いてある誰かのおすすめ本を1冊持ち帰ることができる。”という<本の交換所>があったり。さらにはおいしいもの付きの手紙=<おいしい手紙(左記リンクはらくだ舎さんのサイト内<おいしい手紙>へ)というプロジェクトや、「ひと・農・食・地域・暮らし」にまつわる編集・ライティングをも手掛けていらっしゃる店主の千葉智史・貴子ご夫妻。


 人口300人ほどの色川地区の半数ほどが新規定住者という、移住者が多い山里で、自らも移住者としてサスティナブルな暮らしを模索し活動されている千葉ご夫妻の――野鳥たちの声がそこかしこの山々や川から聴こえてくる色川地区の書店に、わたしの本がひっそりと並べられている。そのことを、心から嬉しく思います。

 

 

店舗情報:らくだ舎/らくだ舎喫茶室
https://rakudasha.com/
和歌山県那智勝浦町口色川742-2
Open/木・金・土: AM10:00~PM5:30
※「色川よろず屋」は、Open/水: PM12:00~PM5:30
※詳細等は上記らくだ舎さんのウェブサイトをご確認下さい。

 

和歌山にお越しの際はぜひ、上記の書店さんへ!

 

 リアル店舗での販売は、すべて、<野鳥文学>の目線で文学作品を紹介するミニ・エッセイ「<野鳥文学>の世界へようこそ」とその表紙代わりの野鳥写真ポストカードを付録として、850円(税込)で販売しています。どうぞよろしくお願いします。
 また、同ヴァージョンはわたし自身のオリジナル・ストア「Soto Refreshment Books」(STORES)でも通販していますが、こちらは850円+送料150円となります。和歌山にお越しの際はぜひ、リアル店舗で実物を見て、お買い上げいただきますようお願いします。どちらも個性的で素敵な書店さんばかりです。

 

 ※次回は拙著『踊る回る鳥みたいに』を取り扱って下さっている、書店以外のお店をご紹介します。

 

*1:(※実はわたしも、大学生だった1999年~2001年頃、神戸のヴィレッジヴァンガードでアルバイトをしていまして、お店にお伺いした際、助野さんとはVV話をたくさんさせていただきました。)

日々のレッスン #007「長い道のりのなかで起きたことを、その場では何が重要か選別しないで。」

 

 採り上げるのは一つの事例だけなのですが、それを深く検討していくと、どういうわけか検討に加わっている別のカウンセラーの別のカウンセリングにも役に立つものが得られるという不思議な方法です。これを行なうときは、起こったことを途中の段階でまとめたりせず、何が起こったかできるだけそのまま提示することが重要です。なぜかというと、まとめた人が重要だと思いもしなかったところに重要なことが含まれている可能性があるからです。
 これはカウンセリングの世界では一般的に行なわれていることなのですが、私は、あるときふとこの方法は何かに似ているな、と思いました。ある長い道のりのなかで起きたことを何が重要で何がそうでないかをその場では区別せずにそのまま記録していき、後からまとめて提示することで何からの意味が立ち上がってくる。これは、「水曜どうでしょう」の作り方に似ているのでははないか? ということでした。

 

佐々木玲仁『結局、どうして面白いのか 「水曜どうでしょう」のしくみ』(フィルムアート社、2012年)より

 

「わたしたち、何か足りないと思ってたのよね。」
 そう言ったのはしおりさんだったけれど、実はわたしたち三人、みんな気がついていた。か、気づかないまでも何かが違うとは思っていた、だからいま、わたしの部屋のわたしとハジメちゃんの前のローテーブルには、ハジメちゃんが買ってきた京都の名店の餡蜜があって、オンライン・ミーティングで繋いだ画面の向こうのしおりさんのテーブルの上にも、ハジメちゃんが送った餡蜜がある。
「幸せみ」を感じるおいしい食べ物。
「<レジェンダリー・マンスリー・トーク>だっけ、侑子さん?」
 六、七年前、出会った頃は侑子ちゃん。だったのが、世界中の人と同じように年齢の差は開いたまま同じだけ歳を重ねて、しおりさんは年下のわたしに「さん」付けになっている。しおりさんの敬意みたいなものが、わたしは嬉しい。ハジメちゃんの餡蜜も嬉しい。
「そうそう、略してL・M・T。」
「レジェンダリーっていうのなら、ラグジュアリーでシュプリームでオーサムじゃなけりゃね。」
「何よそれ。――でもやっぱこれ、おいしいよね。お姉ちゃんの飲んでるのは、何?」
 ハジメちゃんが訊く感じの、妹‐姉の関係の方はずっと変わらない。家族だからというより、一緒に過ごしてきた子どもの頃のままなのか、ハジメちゃんとしおりさんだからか。
「息子が作ったオリーヴ・ティーよ。うちの庭の。本当においしいんだよ。シンプルで、お店とかにはない味。」
 しおりさんのお子さんはカズヒコと同じ、中学一年生だ。生物部に所属し、アウトドア三昧。――そっちは? としおりさんが訊く。
「こっちはほうじ茶。これはさ、京都のじゃなくて、こっちのN町の、山間部で作ってるやつ。」
「あ、あの本屋さんっていうか、そこの併設の雑貨屋さん? よろず屋さん?」
「そうそう、そこは集落の人たちのための商店でもあるし、みやげ物屋さんみたいでもあるし。」ハジメちゃんが答えた。

 

 定義できない何かと何かのあいだにあるもの。それが何であるか、定義づける必要も、要請もないもの。そんなものがわたしは好きだ。わたしたちのL・M・T/ただのオンラインお喋りも、やっぱりただのお喋りだ。だからそこにおいしいものがあれば、もっと嬉しくて、もっといいのだ。

 

シリーズ「日々のレッスン」について

日々のレッスン」は、フィクションと日記のあわいにあるテキストとして、不定期連載していくシリーズです(できれば日記のように、デイリーに近いかたちで続けていけたら、と考えています)。また、それにApple Musicから選曲した<野鳥音楽>プレイリストを添えた「日々のレッスン ft. Bird Songs in Apple Music」を、月1、2回のペースで更新しています。

 

【日々のレッスン・バックナンバー】

ポッドキャスト、始めました。読書/本読みの愉しさに色んな角度から光を当てるラジオ「ア・ピース・オブ・読書」配信中です。

 

anchor.fm

第1回 小説は、どこから読み始めて、どこで読み終わってもいいもの? by ア・ピース・オブ・読書

 

「元から読まない人」「昔は読んでいたけど、今は読まない人」にも聴いて欲しい。そんなポッドキャスト番組、始めました。

 

 いまどきはそうでもないかもしれないな、ということを念頭に置きつつ言うのですが、わたしは「書く人間」にありがちな、「話すこと」が苦手な性質(たち)で、だからこそこういう文章や、あるいは小説まで求められもしないのに書いて自分で出版するような人間なのですが、それでも、
「自分でもやってみたいな」
 と思っていたことのひとつが、ポッドキャスト/音声配信でした。それで今回、配信を開始したのが上記の「ア・ピース・オブ・読書」です。

 

 これは色々な書物を読んできて、あるいは様々な経験則から得た現時点での結論ですが、「小説を読むのにも書くのにも、前提となる知識は必要ない。書かれている/書こうとする、その言語の読み書きさえできればいい。
 とわたしは思っています。なので、今回開始したポッドキャストは読書にまつわるもの、番組の概要欄をそのまま掲載すれば、

 

多様な読書の方法、本読みの「かけら」をご紹介するYoutubeラジオ/Podcast番組。小説家/ブロガー/フィッシュマンズナイト大阪DJ/日本野鳥の会会員の津森ソトが、盟友のミュージシャン・スギーリトルバードを聞き手に、2人の対話を通して、読書の愉しみ方をあらゆる角度から探り語り合う、トークセッション。

 

「ア・ピース・オブ・読書」番組説明文より。

 

 ――という趣旨のものなのですが、こんなゴタクは読むのにも書くのにも、ほんとうは必要ないものなんです。けれど、わざわざ苦手な「喋る」ことを使って「読むこと」について言及する/探求する、というコンテンツを始めたのは、本、書籍というメディア/コンテンツが、もっともっと、「元から読まない人」「昔は読んでいたけど、今は読まない人」にも届いて欲しいな、と思った、というのが理由としてあります。

 

 わたし自身はリーダブルな文章よりも、ちょっと読んでいて引っ掛かりのあるような、ゴツゴツした、取っつきにくさのあるテキストが好きだったりするのですが、わたし自身の書いた小説『踊る回る鳥みたいに』は、わたし自身にも、読んでくださった方々にいただいた感想でも――なかにはふだん小説をあまり読まない方もいます――、

「読み易い」「すらすらアタマに入ってくる」

 というものが意外と多くて、わたしには「取っつきにくいが読みたくなる」テキストを書ける実力がない、とも言えるのですが、このことによって、わたしのようなちっぽけな書き手にとっても(いわんや過去の膨大なマスターピース群や、現在進行形の優れた作家たちをや)、本というものが、「まだ見ぬ読者」に届く可能性がけっこう意外と無限に(は言い過ぎかもしれないけど)あるんだな、と思えたことも、音声メディアという本とは違った方法を使ってみたい、と発想する契機になりました。

 

小説は、どこから読み始めて、どこで読み終わってもいいもの?

 

 ――というわけで、第1回のテーマは、

小説は、どこから読み始めて、どこで読み終わってもいいもの?

 です。これも番組の初回の説明文から転載しますが、こんな内容です。

 

 本は、とりわけ小説は、最初から最後まで、ちゃんと読まなくちゃ。そんな固定観念が小説を読む楽しさを狭めてしまってはいないか? 「どこから読み始めて、どこで読み終わってもいいもの」と考えることで、読書そのものの愉快さも、読める本、読もうと思う本、新しい/面白い本に出逢う可能性を広げてくれるんじゃないか? ――津森ソトがそんな考えのもと、自作や「どこから読んでも愉しい」名作小説を紹介しつつ、「本は最初から最後まで完走する派」のスギ―リトルバードと語り合います。

 

「ア・ピース・オブ・読書」第1回配信の内容紹介より抜粋。

 

「小説は、どこから読み始めて、どこで読み終わってもいいもの」という宣言の趣旨/本懐については、実際にポッドキャストを聴いてみて下さい。


 ここに書いた通り、今回のポッドキャストはメインスピーカーであるわたしとともに(といっても初回はZoom越しでしたが)、聞き手/相方として、長年の盟友(とわたしが勝手に思い、私淑している、というかいちファン。)であるミュージシャン、スギーリトルバードさんに出演していただいています。
 初回はわたしの話しっぷりが硬くて、話したいことをとにかくちゃんと話す、ということに注力し過ぎてトークセッション/語り合いにいまいち、なっていませんが、目の前に受け手がいてくれる、というのはふだん表現方法として書くこと――ブログでも小説でも同じことですが――を選択している人間にとって、とても嬉しいことなのです。そしてスギ―さんはライブ経験豊富なミュージシャンであって、そうしたダイレクトな反応が発信者にとってどれだけ大きな意味を持つのか、を深く理解されている方だと思います。何より長年の友人で、音楽、映画や小説といった趣味も、被り過ぎない範囲で、共通体験をシェアしているわたしにとって数少ない同世代の人でもあるので、今回、彼に聞き手を務めていただくことをお願いしました。OP、ED曲も彼のソロ作、「ソングバードEP」から2曲のインストを使用させていただきました。

 

 ――スギ―氏にはどれだけ感謝してもし足りないくらいなのでちょっと文章のバランスがおかしくなりましたが、ポッドキャスト/YouTube(音声のみ)番組「ア・ピース・オブ・読書」は、今後とも、本の愉しみ方を広げることに役立つ、実用的な内容や駄話を織り交ぜて、配信していきたいと考えています。どうぞよろしくお願いします。

 

【現時点(2022/9/22現在)の配信先はこちら。】

Anchor|第1回 小説は、どこから読み始めて、どこで読み終わってもいいもの? by ア・ピース・オブ・読書

Spotify|第1回 小説は、どこから読み始めて、どこで読み終わってもいいもの? - ア・ピース・オブ・読書 | Podcast on Spotify

YouTube(音声のみ)|「小説は、どこから読み始めて、どこで読み終わってもいいもの?」ア・ピース・オブ・読書 Vol.001 - YouTube

※今後、Appleポッドキャスト/Googleポッドキャストなどでも配信できるよう、調整中です。

 

www.youtube.com

日々のレッスン #006「岬の先端まで辿り着いて、鳥ならば飛べもしよう。」

 

 ずいぶん以前に、ミサキ(ミは接頭語)のサキ、あるいはサクという言葉には、目の前でどんどん展開していく景色、新しく開けていく状況、というような意味がある、と何かで読んだことがある。咲くにしても、裂く、にしても。大地が裂けて、新しい芽吹きが展開するような、そういう変化に富んだ先端性のようなもの。目的のために押し進められる力。
 さきへ、さきへと岬の先端まで辿り着いて、鳥ならば飛べもしよう。魚ならば泳ぎもできよう、けれど人は、そこからどこを目指すのか。岬に辿り着いた人は、一様にしばらく声もなく呆然と海の彼方を眺める。


梨木香歩『鳥と雲と薬草袋/風と双眼鏡、膝掛け毛布』(新潮文庫)より

 

「本読んでてさ、ここ、この文!って――そこで感じた気持ちを誰かとシェアしたい、話したいって思うじゃない。」
「あるよね。でも本じゃなくても、映画とかでもあるし、そういうことじゃなくても、あるでしょう?」
「そうなんだけどさ――、」

 

 今日はわたしがしおりさんにタメ口になっていた。しおりさんはわたしの同級生で親友!と中学生の頃から思い続けているハジメちゃんのお姉さんだ。今日はしおりさんとわたしとふたり、オンラインとはいえさしむかいだからかもしれない。一対一の関係というのは三人以上の<集まり><集団>とは親密さも距離感も、絶対的な違いがあるもので、わたしはそれは<別次元のこと>だと思っている。
 いつかだれかの本で、「好き」という気持ちは一種類しかない、英語でいうLoveもLikeも本当はおんなじで、近づきたい気持ちと離れたい気持ちのうち、近づきたい気持ちが「好き」なんだ。というのを読んだことがあって、その本(たしか小説だった)では、ある人(A)が友人Bに、そこにはいない、Aがレンアイ感情を抱いているCの気持ちを、「Cはぼくのことをどう思ってるかな?」と相談というか質問というか確認するのだけれど(それに対してのBの回答が「好きは一種類」だ)、わたしはさしむかいの状況や関係が好きだし、しおりさんが好きだ。

 

「でもほとんどの場合――本の場合ってことね、そのときの気持ち、そのときの<感じ感>はだれとも共有できずに終わるんだよね。」
「あなたは、それが好きなんでしょう?」


 と、アクセントは疑問形だけれど、しおりさんははっきりと断定的に、しかし肯定的に聞こえるトーンでわたしの目を見て言った、PCのインカメラ越しにわたしは見つめ返したけれど、先に逸らしたのはわたしのほうだった。わたしの視線はしおりさんの、広めにデコルテの開いたオフホワイトのカットソーから覗く左の鎖骨から胸のワンポイントへ流れて――赤い色の鳥の羽の刺繍が施されていた――、それを見ながらわたしは言った、


「それは確かにそうで、わたしはひとりが好きだし、そのことに慣れてもいるし。ただ、日々それを繰り返してると、読んでいるあいだだけ、そのセンテンスを読んでいる瞬間にだけ浮かんだ気持ちが、日々の泡みたいに消えてくみたいに、わたしだけじゃなくて世界じゅうの人の瞬間瞬間の思いはどこにもキロクされずに消えてくんだよな、って。」
「うん。それもさ、わたしにはいいことに聞こえるよ。」

 

 その声は神を信じないわたしにも恩寵のようだった。外はまだ明るくて、でも台風が近づいてくるときの湿った風が回っているのを、その匂いまで、窓を閉めていても伝わってくるようだった。

 

シリーズ「日々のレッスン」について

日々のレッスン」は、フィクションと日記のあわいにあるテキストとして、不定期連載していくシリーズです(できれば日記のように、デイリーに近いかたちで続けていけたら、と考えています)。また、それにApple Musicから選曲した<野鳥音楽>プレイリストを添えた「日々のレッスン ft. Bird Songs in Apple Music」を、月1、2回のペースで更新しています。

 

【日々のレッスン・バックナンバー】

日々のレッスン #005「今日は休耕田にトウネンがいた。」(ft. Bird Songs in Apple Music)

写真はトウネン(2022.8)

 

 ごく薄いフィルム付箋を本を読みながら、気になった(気に入った、とも少し違う)センテンスや段落に目印に貼っていく。という習慣を持ったのはいつ頃からだったかもう思い出せない。ページの角を折る<ドッグイヤー>や、鉛筆での書き込みをそれ以前はしていた。
 本を傷つけない、汚さない。また小さく細い、しかも色の薄いパステルカラーの付箋を使うことで、本文を読む(読み返す)ジャマにもならないし、いい感じだぜ――。そう思っていた。過去形で考えてみてはいるが今もそう思っているし、そうしている。
 けれど二〇二二年九月現在のいま、わたしはこの極細フィルム付箋はマイクロプラスチックそのものではないか、とも思っている。マイクロプラスチックは一般に「直径五ミリメートル以下」と定義されてはいるし、付箋は本に貼りっぱなしなのでどこかへ流出してしまうわけではないが、そういうプロダクトを購入していること自体を、わたしは全くの後ろめたさなしに行うことはもうできない。製造過程のことまでわたしはトレース、フォローしていないし、わたしがいつか死んだり、わたしの家が災害で流されたら?

 

 カズヒコを乗せて水田の広がる農道をクルマでゆっくり流す、<ドライブスルー探鳥>とわたしたち二人で呼んでいる鳥見をしながら、わたしはそれをずっと考えていた。カズヒコはいつものように、
「あ、ちょっとここバック。もちょっとゆっくり走って。いまのジシギかも。」「後ろから軽トラ来たで。ジャマにならんように普通に走って。」
 とか、後部座席から船頭気分でわたしに。


 今日は休耕田にトウネンがいた。小さくて地味なシギだが、わたしはトウネンが好きだ

 

 トウネンの、耳はどこにあるのだろう。
 夫がそうつぶやいていたのを、彼女は今朝、ふいに思い出したのだった。いっしょに干潟に行ったときのことだ。夫はこの鳥を見つけ、双眼鏡を覗き始めてしばらくすると、そう独り言のようにつぶやいた。さあ、と彼女はそのとき気にも留めなかった。
 なぜ「鳥の耳」ではなく、「トウネンの耳」だったのか。夫が亡くなって十二年もたつというのに、今朝、突然そのことを思い出し、調べたくなったのだ。調べてもわからなかった。トウネンは、さして目を引くところのない、ふつうの鳥だった。

 

梨木果歩「トウネン」(新潮社刊『丹生都比売 梨木果歩作品集』所収)より。

 

プレイリスト「2022.09_Blackbird and Tombi,Fly」

※以下、選曲は全て、「演者/曲名」で表記しています。
※下記プレイリスト名のリンクより、Apple Musicで聴くことができます(Apple Musicのメンバーシップが必要です)。

2022.09_Blackbird and Tombi,Fly」(選曲:ソト

M01. Dionne Farris/Blackbird
M02. macaroom/Tombi
M03. Elise Trouw/How to Get What YouWant (Live Loop)
M04. Fishmans/SEASON
M05. 環ROY & 角銅真実/憧れ(角銅真実Remix)
M06. hope mona/glowing birds
M07. De La Soul/Action!
M08. B.o.B/Magic Number
M09. Electric Light Orchestra/Strange Magic
M10. She & Him/Wouldn't It Be Nice
M11. Arrested Development/Be Refreshd(feat. Speech, Configa, 1 Love & Twan Mack)
M12. A Taste of Honey/I Love You

macaroom - tombi (Official Music Video) - YouTube

 

SWIMING CLASSROOM

SWIMING CLASSROOM

  • アーティスト:MACAROOM
  • KIISHI BROS.ENTERTAINMENT
Amazon

エレクトロニカ・ユニット、macaroomの「Tombi」収録の3rdアルバム(2018年作品)。

 

シリーズ「日々のレッスン」について

日々のレッスン」は、フィクションと日記のあわいにあるテキストとして、不定期連載していくシリーズです(できれば日記のように、デイリーに近いかたちで続けていけたら、と考えています)。また、それにApple Musicから選曲した<野鳥音楽>プレイリストを添えた「日々のレッスン ft. Bird Songs in Apple Music」を、月1、2回のペースで更新していく予定です。ご期待ください。

 

【日々のレッスン・バックナンバー】

日々のレッスン #004「〝443〟というピッチで。」

写真はシジュウカラ(馬見丘陵公園、2021.4)

 

「フィッシュマンズの『SEASON』って曲、あるでしょう?」しおりさんがいった、
「好き好き。」と声を合わせて、わたしたち(わたしとハジメちゃん)。合いの手を入れた。だいたいいつもハジメちゃんがウチにやってきて、ウチにいるコドモたちが寝ついてから、わたしたちの<レジェンダリー・マンスリー・トーク>(以下L.M.T)は始まるのだった。もっとも中学生になったカズヒコは、二階のわたしたち三人の寝室で、チャーちゃんが寝ている傍らでYouTubeを観ているか、本を読んでいるかだろう、

 

「――宇川さんの番組でさ、」
「『ドミューン』でしょ?」とわたし。「そうそう、宇川さんが今アマゾン・ミュージックで『ドミューン・ラジオペディア』ってポッドキャストやってるんだけど、
 そこでZAKさんがいうには『SEASON』はふつうの楽曲とは違うピッチ、つまり基準になる音の高さが違っているんだって。よくわからないんだけど、ふつう〝440〟とか〝441〟っていう数値にするところを、これは〝443〟なんだって。」
 それで独特の<ちょっと浮いている感じ>を生んでいるんだ、という趣旨のことを、ZAKさんや三田格さんたちが語っていたのだという。

 

「しおりさん、そういうの好きですよね。」わたしは抽象的な感覚を数値や目に見えるもので言い表したり置換したりすることは、しおりさんがボディケア/トリートメントのプロフェッショナルであることと通じているのではないかと思った、
「でもその話って、わたしたちみたいに全員音楽のシロウトじゃあ、『へぇ』ってことにしかならないね。」とハジメちゃんがいった。
「そうね、バニーくんに聞いてもらいたい話かもね。フィッシュマンズのディレクターの人いわく、最初に聴いたとき、『気持ち悪い』とか『変な感じ』、『違和感』があったんだって。」
 微妙な音の高低をミュージシャンや音楽を生業にしている人たちは聴き分けている。それも鳥みたいだ、とわたしは思うけれどあまりにも短絡的な気がして口に出さないでいると、

 

「そういえば、久しぶりに聴いて思ったんだけど、あの曲の『ピッピウ、ピッピウピピウ』って聞こえる佐藤さんのスキャットって、鳥の鳴き声なんだね。」
「そうだっけ?」とふたたびわたしとハジメちゃん、声を合わせて。
「――だって曲の終わりに、ほんとうに小鳥の鳴き声が入っているでしょう。あれはサンプリング?」
「どうなのかなー、カズヒコならわかるかなー。野鳥の会の先輩方ならわかるかなー、鳥の種類。」わたしは曖昧にしか答えられない。
 こういう会話、『ドミューン』の宇川さんといったら宇川直宏さんで、フィッシュマンズの『SEASON』といったらあの曲のことだし、ZAKさんといったらフィッシュマンズに欠かせないエンジニア――とかいうことを、説明抜きで前提を共有して話せることは、L.M.Tみたいなお喋りの愉しさの底を流れている。その上を<ちょっと浮いて>フィッシュマンズの曲がかかっていて、もっと上で亡くなったソングライターでボーカルの佐藤さんが歌っている。

 

 小鳥たちのお喋りは人間に理解されている範囲では生存や生殖に関わるコミュニケーションだけれど、近年有名になった京都大学の鈴木俊貴先生のシジュウカラの研究では、シジュウカラの会話は他の小鳥たちにも通じているらしい。共通の外敵から身を守るためだったりするわけだけれど、暗黙の共通理解や知識のシェアで、逆に分断を生んだりしないぶん、鳥たちのコミュニケーションの方が自由なのかもしれないと思った。これもまたわたしの思い込み、しかも(仮)くらいのものだから、この場所で二人には話さなかった。

 

SEASON

SEASON

  • UNIVERSAL MUSIC LLC
Amazon

Fishmansの「SEASON - Single」をApple Musicで

 

シリーズ「日々のレッスン」について

日々のレッスン」は、フィクションと日記のあわいにあるテキストとして、不定期連載していくシリーズです(できれば日記のように、デイリーに近いかたちで続けていけたら、と考えています)。また、それにApple Musicから選曲した<野鳥音楽>プレイリストを添えた「日々のレッスン ft. Bird Songs in Apple Music」を、月1、2回のペースで更新していく予定です。ご期待ください。

 

【日々のレッスン・バックナンバー】

日々のレッスン #003「何十本もの付箋が飛び出たわたしの読み終えた本は、鳥のように野に放たれる。」

写真はトビ(天神崎、2022.3)

 

 ところでその野鳥だけれど、わたしはいつまでたってもその知識も、彼ら彼女らの姿を双眼鏡で捉える俊敏さも、あるいは写真に収める技術も、いつまでたってもビギナーの閾だ。カズヒコのリクエストのままに各処で行われる探鳥会に参加し、図鑑や野鳥の生態について書かれた本を読みはするが、どうしてもわたしは枝葉末節に気持ちが、眼が、向いていってしまう。

 というのはいつごろからか、わたしは鳥とは関係のなさそうな映画や本、音楽のなかに鳥を見出すことに興味のベクトルが向かってしまった、ヒマさえあればスマホをだらだらいじってしまうのは現代人の習いだけれど、そんなときわたしは、アップルミュージックの果実に群がる鳥を探す。

 今日の収穫はmacaroomの「tombi」。とてもいい。息の詰まるような生活を歌いつつ、現れるトンビ(トビ)は、そうは見えなくても恩寵のようだ。

 

 読んでいる本の気になった箇所に極細のフィルム付箋を貼っていくのは現代人の、ではなくて<現代人であるわたし>の習慣で、本の天や小口から少しずつ、何十本もの付箋が飛び出たわたしの読み終えた本は、その付箋が小さな羽根の集まりのようで、わたしがいないところで、わたしがこの世にいなくなったあとで、鳥のように野に放たれる。いい気分だ。

 

 見る者の目を釘付けにせずにいられない写真が数多い。たとえば笑っているような表情でこちらを振り返っている、彼のアイコンともいえる野良犬の写真はそのひとつだ。ふだん見ている現実のどこにこういうシーンが潜んでいるのかと不思議に思わずにいられないが、狙っては撮れないショットなのは確かだ。膨大な量が撮られるなかから浸透圧のように上がってくる、撮ることと歩くことが不可分な人だけが手にすることのできる褒美のようなものと言える。

 

大竹昭子『スナップショットは日記か? 森山大道の写真と日本の日記文学の伝統』(カタリココ文庫、2020年)より

katarikoko.stores.jp

 

シリーズ「日々のレッスン」について

日々のレッスン」は、フィクションと日記のあわいにあるテキストとして、不定期連載していくシリーズです(できれば日記のように、デイリーに近いかたちで続けていけたら、と考えています)。また、それにApple Musicから選曲した<野鳥音楽>プレイリストを添えた「日々のレッスン ft. Bird Songs in Apple Music」を、月1、2回のペースで更新していく予定です。ご期待ください。

 

【日々のレッスン・バックナンバー】

 

日々のレッスン #002「わたしたちの<レジェンダリー・マンスリー・トーク>」

写真は西村伊作設計・旧チャップマン邸にて(2022.6)

 

 しおりさんが遠くの町へ引っ越してしまったことで、わたしたちのプライヴェートな<レジェンダリー・マンスリー・トーク>(ただのお喋り)はできなくなってしまった。しおりさんの引っ越しの直後にコロナ禍がやってきた。

 コロナ禍、すなわち新型ウィルスのパンデミックはわたしたち(全世界のピープル)には偶然のタイミングだったけれど、しおりさんが何かを予感していなかったとはわたしたち(わたしとハジメちゃん)には言い切れないと思っていた、ハジメちゃんもわたしもそんなことをカクニンするのは野暮ったいので話題にしたことはなかったけれど。

 

 代わりに、というのではなくただわたしたち三人が始めたことは、わたしたちがふだん聴いているポッドキャストの番組みたいにちょっとした「お題」を用意して、Zoomのオンライン・ミーティングでわたしとハジメちゃん、しおりさんを繋いでわたしたちの<レジェンダリー・マンスリー・トーク>を復活させたことだった。

 ポッドキャストと違うのは、それを全世界に向けて発信したりしないことで、ポッドキャストと似ているのは、わたしだけはそれを録音して、寝る前や通勤時に時々、聞き返していることだった。

 

 わたしは本格的に鳥見(バードウォッチングのことを、愛好家はそう呼ぶらしい)を始めたカズヒコと一緒に野鳥の会に入り、野鳥の会の会員制度には<家族会員>というのがあって会員の家族は格安で入会できるのだが、わたしとカズヒコ(そしてチャーちゃん)には法的な親子関係がなくてわたしたちはそれぞれ入会することになった。もちろん年会費は保護者であるわたしが払っている。しかしそれはわたしの思い違いかも知れず、<家族>の定義をわたし自身が予断していたのかもしれなかった。いずれにしても会の理念に賛同するにやぶさかではないので、それを損得勘定でどうにかしようとは思わなかった。

 

「日々のレッスン」というタイトルは、ずっと前に読んだ本書のタイトルを何となく、そういうふうに間違って記憶していたことに由来します。

 

シリーズ「日々のレッスン」について

日々のレッスン」は、フィクションと日記のあわいにあるテキストとして、不定期連載していくシリーズです(できれば日記のように、デイリーに近いかたちで続けていけたら、と考えています)。また、それにApple Musicから選曲した<野鳥音楽>プレイリストを添えた「日々のレッスン ft. Bird Songs in Apple Music」を、月1、2回のペースで更新していく予定です。ご期待ください。

 

【以前の記事から】

日々のレッスン #001「小さな二階だてのビルディング」(ft. Bird Songs in Apple Music) - ソトブログ

 

【日々のレッスン・バックナンバー】

日々のレッスン #001「小さな二階だてのビルディング」(ft. Bird Songs in Apple Music)

写真はタカブシギ(2022.8)

野鳥と文章と音楽と。

 日々のレッスン。


 毎週、頭の片スミに「野鳥」の居場所を拵えておいて、音楽サブスクの「Apple Music」でプレイリストを作る――そしてその音楽からわたしに連想されたテキストを添えて、一皿の料理のように記事を公開する。あるいはその時点でわたしのアタマだか心の裡だかをじゅうぶんな体積で占めていた事がらを文章にしつつ、そこに添えるべき音楽を、「野鳥」をきっかけにしながらやっぱりリンゴのサブスクのなかから探していく。そういうことを40回近く、正確には36回、続けて来ました(当初はAmazon Musicでしたが)。

 

 <ブログ>という体裁のテキストにとって、何らかの企画性みたいなものが必要。という思い込みがそこにはあったのですが、わたしのような無名の書き手が文章を書くという行為を続けるにあたって考えるべきことは――とりわけ、それが他人に読まれる価値のあるものであることを担保するためにわたしがやらなければならないことは、「体裁」を整えることではなくて、

ほんとうのこと。

 を書くこと。なのではないか、と今さらにして気がつきました。だからこの先の文章は、フィクションになります。――論理が破綻しているようですが、わたしにはそうとしか思えないのです。

 

日々のレッスン#001「小さな二階だてのビルディング」

 

 わたしたちが「おれたちの鳴尾浜(津森ソト著、小説集『踊る回る鳥みたいに』所収)という小説のなかでやっている、オトナひとりvs.コドモふたりの真剣勝負としての、ゴムボール&プラスチックバットの野球は、コドモのうち年長者が中学生になった今年は、なんだか彼が忙しそうで、ここしばらくやれていません。

 女子野球ならぬ女子サッカー選手だったわたしは野球は実は門外漢ですが、子どもたちには、わたしの投球は、100km/hを超えていることになっています(子どもたちに「ユウちゃんのタマ、100キロくらい?」と訊かれ、わたしが否定しなかったから)。

 「おれたち~」では、兄弟である二人のうちの兄・12歳のカズヒコが、わたしの投じたアウトローぎりぎりへ糸を引くように曲がり落ちるチェンジアップを見事に捉え、ホームラン。プロ野球、阪神タイガースの中軸打者のひとり、ジェフリー・マルテ選手――今年は故障がちで、一軍で活躍する姿が見られなくなってしまいましたが――のパフォーマンス、「ラ・パンパラ」を華麗に決める12歳のカズヒコと、6歳の弟・チャーちゃんの姿が描かれています。いま思い出しても、あれは格好良かったな。

 

 あの本のなかで31歳から37歳にかけてのわたし・市川侑子は、アロマオイルを使ったセルフ・ボディケアを日課にしていて毎月だったか数ヶ月に一度だったか、友人(もとは友人のお姉さん)だったセラピストのしおりさんに施術を受けていました。そのしおりさんも今は遠くに住んでいるので、このコロナ禍にあって、なかなかお会いすることも叶いません。

 それでもわたしはわたしがふたりのコドモたちと過ごすこの街で、素敵なサロンをみつけました。白くて古い、でも美しい、小さな二階だてのビルディング。そこにわたしは、わたしが「踊る回る鳥みたいに」のなかで経験したような、施術と平穏と、愉しい気持ちを味わせて下さるような、予感めいたものを感じています。

 

 先日探鳥会でお目にかかった大先輩の女性は、俳句同人で、
主人とふたり、繁忙期以外はヒマなお店をやらせてもらっていましたからね、時間だけはたっぷりあったんですねぇ。だからずっと続けてこられたんです。
 と仰っていた。いつか彼女の句を、その人の話す柔らかな声で、聞いてみたいと思っています。

 

 

プレイリスト「2022.08_Got Locked Up Like a Sparrow」

※以下、選曲は全て、「演者/曲名」で表記しています。
※下記プレイリスト名のリンクより、Apple Musicで聴くことができます(Apple Musicのメンバーシップが必要です)。

2022.08_Got Locked Up Like a Sparrow」(選曲:ソト

M01. The Smashing Pumkins/Farewell And Goodnight
M02. Sally Seltmann/Please Louise
M03. The Interrupters/Family
M04. Sion/通報されるくらいに
M05. Primal Scream/Big Jet Plane
M06. macaroom/yakan-hikou
M07. U-zhaan×環ROY×鎮座DOPENESS/にゃー feat. 矢野顕子
M08. Sweet Robots Against The Machine/Forget Me Nots(with Joi Cardwell & Viv)
M09. The Pretenders/Everyday is Like Sunday
M10. Clairo/Amoeba
M11. Beat Happening/Indian Summer
M12. imagiro/Birds(feat. Delayde)
M13. Randy Newman/I Think It's Going to Rain Today

U-zhaan×環ROY×鎮座DOPENESS / にゃー feat.矢野顕子 - YouTube

 

 本シリーズ「日々のレッスン」は、フィクションと日記のあわいにあるテキストとして、不定期、でもできればデイリーに近いかたちで続けていけたら、と考えています。それにApple Musicから選曲した<野鳥音楽>プレイリストを添えた「日々のレッスン ft. Bird Songs in Apple Music」は、月1、2回のペースで更新したいと思っています。今後ともどうぞよろしくお願いします。

 

【Apple Music オフィシャルサイト】

 

【当ブログの「野鳥音楽プレイリスト」記事一覧はこちら。】

“Pomera, My Love, to Every Hour in Every Day”――ポメラDM200ユーザーが、DM250誕生を言祝ぐ。

 

写真は約5年間愛用中のポメラ、DM250。

 

 キングジムのワン・アンド・オンリーな傑作プロダクト。テキスト入力マシン「ポメラ」にNew Shit、<DM250>がリリースされたらしいのです。DM200いらい、なんと6年ぶり。

 おそらく事実であるといって間違いないと思われますが、地方に暮らしていて――且つ、コロナ禍であってハナから内勤の勤め人で県外はおろか県庁所在地にさえ出かけることもほとんどないわたしのような種類の人間にとっては、「ポメラ」のようなニッチなプロダクトの実機を店頭で目にする機会というのは、訪れようがないのです(唯一ありうる可能性としては、「知り合いが持っている」というケースですが、それもありません)。

 

 自身の愛する道具がこうして新機種に更新されることで、プロダクトとして存続していくのは勿論、嬉しいことなのですが、ポメラのようなハードウェアの更新のサイクルの長い、そしてそもそもラインナップの展開の少ないプロダクトの副次的な「良さ」のなかに、わりあいせこい話だけれど、

自身の使っているモデルが、ハイエンド/フラッグシップ機であって、しかもその地位にある時間が長い。

 というのがあって、わたしは新種のデジタル・ガジェットを次々に買うような経済力も、そのこと自体を良しとするメンタリティも持ち合わせていないので、そもそもこういうことは奇跡的なことなのです。すなわち、2007年の時点で小沢健二が『企業的な社会、セラピー的な社会』(ひふみよ出版部/ドアノック・ミュージック)で喝破していた<灰色>の「もう古いの計画」に心をざわつかせることがない、というのはSDGs、Web3、メタバース、コンヴァージェンス・カルチャーを見据えた2022年という「いまここ」にあって、わたし(たち)個人の効用ないし幸福感ないし精神の安定にとって、非常に有効/有用なのです。

 

 とはいえDM250の登場をわたしは言祝ぎたいと思います。

 

 

 ポメラDM200は今日もわたしにとって必要十分な道具であり相棒であり、毎日触るわけではないけれど気が向いたときに開いて、好きに文章を綴りたくなる。わたしにとっては、わたしの手許にある機械や道具(文房具も含めて)のなかでも最も、「書く行為」をアフォードするマシン。第一位。

 

 ――という地位を、たったいまも占めています。そして詳らかになっている情報を参照するかぎり、DM250というニュータイプは、DM200のあまりにもまっとうな後継機種であって、ある意味で無骨で無粋ともいえるほどの、実直な正統進化を遂げたプロダクトであるらしい。いまなら在庫整理ということなのか、各種ウェブストアでDM200が、そのDM250の半額ほどで入手できるようです。個人的には、――文章を書くことが他の何より好きであって、ポメラに興味があって、いまだ手にしたことがないという人にとっては――どちらも「買い」だと思います。Guranteed Every Time!

 

フェアウェル・アンド・グッドナイト

フェアウェル・アンド・グッドナイト

  • スマッシング・パンプキンズ
  • ハードロック
  • ¥255
  • provided courtesy of iTunes

music.apple.com

 

 

【以前の記事から】

 【レビュー】「実はストロング・スタイル」なポメラDM200で、ただ無心に書く。――あるいはポメラDM200へのラブレター。 - ソトブログ

 

【当ブログのポメラについての記事一覧はこちら。】

ポメラDM200 カテゴリーの記事一覧 - ソトブログ

ブックレビュー“読む探鳥”:黒川創『かもめの日』/チェーホフ『かもめ』/宮沢章夫『チェーホフの戦争』――「ヤー・チャイカ(わたしはかもめ)」という声が繋ぐ、120年の過去・現在・未来。

ワレンチナ・テレシコワの「ヤー・チャイカ(わたしはかもめ)」。

 

 時は20世紀。米ソの宇宙開発競争の渦中、「女性初」の宇宙飛行士として脚光を浴びたワレンチナ・テレシコワの地上への交信の第一声。
ヤー・チャイカ(わたしはかもめ)
 ――というそれが、19世紀ロシアの文豪・チェーホフの戯曲『かもめ』のヒロイン、ニーナが劇中で何度も叫ぶセリフと同じであることは、よく知られています。

 

「チャイカ=かもめ」はテレシコワのコードネームであり、交信に際して「ヤー・チャイカ(わたしはかもめ)」と発するのは当然といえば当然であって、しかも当時のソ連の宇宙飛行士たち――他は全て男性――のコードネームは、「ワシ」「タカ」「イヌワシ」「オオタカ」など、全て鳥の名前。「かもめ」もそのひとつに過ぎないという。しかし、本当にそうなのか? 勇ましい猛禽類の名が並ぶなか、ただひとりの女性飛行士であったテレシコワのコードネームが「かもめ」であったのは、「かもめ」が女性名詞であるということもさりながら、当時のソ連の宇宙開発に関わる、おそらくはチェーホフのファンであった当局の意思決定に関わる人物が、意図して『かもめ』の悲劇のヒロイン、ニーナに由来させていたのではないか――?

 

 

 そんな発想から始まる黒川創の小説『かもめの日』のストーリーは、テレシコワが70時間50分で地球を48周まわった1963年6月から急転直下、現代の東京(本書の上梓は2008年)へ時空を超えて着陸し、展開します。
 群像劇の形式を採った『かもめの日』は、<主人公>と呼ぶべき複数の人物たちのある一日を並行して追いかけながら、それらがゆるやかに繋がっていくさまを描き出していきます。
 彼ら・彼女らは例えば、妻に事故で先立たれたばかりの作家であり、亡くなった女性と恋愛(不倫)関係にあった、くだんの作家の親友であり、14歳で男たちにさらわれてレイプされ、復讐を誓う19歳の女性であり、偶然の出会いから彼女を助けようとする地球物理学者の青年であり、かつて凶行を犯した、仕事と生活に疲れ切ったラジオ局のADの青年、といった人たち。

 

 ――こんなふうに小説内の事実だけを列挙してみれば、どれも悲劇のようにしか思えないけれど、チェーホフの『かもめ』がそうであるように、彼らを同列に、一見同じようなバランスで描くことで、(そしてこれも『かもめ』と同じだけれど、劇的な出来事が小説内で次々に起こる、というのとは真逆の静かな物語だけれど、それでも)物語が展開すればするほど、逆説的に喜劇的な印象を帯びていきます。それはちょうど、チェーホフが『かもめ』に、「四幕の喜劇」と正式に付しているのと相似形をなしています。

 

たった一冊の本、そこにあるたったひとことのセリフが、わたしの人生を肯定してくれる。

 

 そして「小説」の<主人公>とは、小説を一度でも読んだことがある人なら誰でも知っているように――、あるいは映画でも演劇でもテレビドラマでも絵本でもいいけれど、そしてもちろん、実人生でもいいけれど、人間のドラマを知っているひとなら誰でも知っているように――、わたしたち自身の似姿でもあります。
「わたしたち一人ひとりは、わたしの人生の主人公」
 そんな気恥ずかしくて口には出せないことばはでも、わたしたち一人ひとりにとって真実であることは確かです。

 

「わたしの人生がこうなっていること」の要因はきっとわたしに帰属すべきものだけれど、いまここにある「世界」がこうであることは、わたしのせいだなんて思わなくていい――。そんなこと、ほとんどの人にとっては当たり前かもしれないけれど、わたし(いまこの文章を書いているわたし)は、人生の半ばにさしかかるこの歳(44歳)まで、それを混同していたかもしれません。それに、「いまここ」のこの世界を見渡せば、「世界がこうであること」は、ちゃんとわたしに、文学的な意味じゃなくて生活レベルで影響しているのを実感します。パンデミックも戦争も、要人を撃った凶弾も、その遠因にある教団も政党も。しかし世界がこうであることの正当性はこの世界では、証明され得ません。
 そのことはもしかしたら悲劇かもしれないけれども、チェーホフの『かもめ』も黒川創『かもめの日』も、2022年のわたしたちに、そのままでリアルな現実として胸に迫るのを感じます――。それが優れた文学作品がもたらす、わたしたちの人生への効用だと思います。

 

 ある人にとって人生でもっとも大切なものは、自身の努力でつかみ取った天職や財産であるかもしれないし、最愛の伴侶や子どもたちであるかもしれない。そしてわたしの人生がどんなにささやかで目立たない、ぱっとしないものであっても、たった一冊の本、そこにあるたったひとことのセリフが、わたしの人生を肯定してくれることもあります。
 ストーリー上の「ネタバレ」にはならないでしょうから、あえて『かもめの日』の結末近くから次の箇所を引いておきます。

 

「――人と別れるのが不安なときは、相手を後ろから見送ったりしないのが、いいんだって。知らん顔して、ほうっておく。それが、一種のおまじない、っていうか。そうしておいたら、きっとまた会えるんだって」
(中略)
「――だからね」女の人は言う。「あなたは、いつもみたいに、川、見てれば?」
 そうした。
 川のほうへと向きなおり、膝を抱く。白い鳥が、水面すれすれに飛んでいき、だんだん、空に上がっていくのを、目で追った。

 

黒川創『かもめの日』(新潮文庫)より

 

「またね……」そういって自転車を駆って去って行く2008年の小説のなかのあの人は、コロナ禍で戦時下の2022年のこの世にはいないけれど、この小説を生んだ作者とともに、そしてそれを読んだわたしとともに、きっと存在しているのです。そして唐突ですが、チェーホフの『かもめ』を論じた、劇作家・宮沢章夫のテキスト(ちくま文庫『チェーホフの戦争』所収の『かもめ』論、「女優の生き方」)からも引用しましょう。かつて恋人、トレープレフが持ってきた「死んだカモメ」のイメージに囚われ、あるいはまた、憧れ追いかけて恋に落ちた作家、トリゴーリンからも捨てられた女優志願の若いニーナは最終盤、「わたしはカモメ……そうじゃない。わたしは女優。そういうこと!」と開き直り、立ち上がります。それをして、<「法(=ドラマツルギー)」から自身を救い出し、「自己実現の焦燥」からも自由になることを意味する。>と宮沢章夫はいいます。絶望したトレープレフが、(舞台の外で)猟銃自殺したことが告げられて、物語は閉じられます。

 

トレープレフは死んだ。トリゴーリンは道化としてただ立ちつくす。だからこそニーナは、「男」によって組織された劇から解放され、自分の足で舞台に立つことの可能な一人の「女優」として、『かもめ』というテキストのなかにいまもなお生きている。

 

宮沢章夫『チェーホフの戦争』(ちくま文庫)所収「女優の生き方」より。

 

時として野外のフィールドと同等かそれ以上に、生き生きとした野鳥の姿をテキストのなかに見出せる、「読む探鳥」をこれからも。

 

 120年以上の時空を超えてフェミニズムを射程に入れ、現代に通じるテーマを描ききって、ニーナに生気に満ちたソウルを吹き込んだチェーホフの『かもめ』。そこにはバーダーにとっては皮肉にも、野鳥の姿はカモメの死骸と剥製しか出てきませんが、わたしが文学作品のなかに鳥を探す、「インドアヴァーチャル探鳥」を続けているのは、時として野外のフィールドと同等かそれ以上に、生き生きとした野鳥の姿をテキストのなかに見出すことができるからです。たとえそれがたった一瞬、水面すれすれを飛んでいく白い鳥(カモメsp.あるいはサギsp.?)の姿であっても。

 

 

【野鳥に関する本、映画等についてのレビューを、シリーズ「読む探鳥、観るバードウオッチング」としてカテゴリーにまとめました。】

 

【拙著、<野鳥小説>こと『踊る回る鳥みたいに』発売中です。こちらもよろしくお願いします。】

関連記事:

 

【当ブログの読書および野鳥観察についての記事一覧はこちら。】

 

“Little Bird(すべてをわからなくてよい、たくさんの秘密)”――Bird Songs in Apples #007(野鳥と音楽を愛する人のためのApple Musicプレイリスト)

写真はオジロトウネン(2020.5)

もっとも大切な部分を書くことが何かしらの理由で憚られるなら。

 

 わたしには「いい小説」とか「いい音楽」の定義ってはっきりしていて、

読んでいて/聴いていて、いまこの瞬間に読んでいるこの本や、聴いているこの音と別のこと

 のことが思い浮かんでいるかどうか? だと思っています。


 だから「夢中で一気に読んだ!」みたいなことは、わたしにはあんまりどうでもいい。勿論、本に限らずあらゆるエンターテインメントとは、<受け手の時間を奪うもの>だから、どの作品も(大抵の場合であって、例外があることはいうまでもありませんが)、受け手にアディクトないしは没頭させようとして作られているものですから、「一気に読んだ!」「狂ったように一日聴きとおした!」みたいなことが、そんなわたしにもないわけではありません。

 

 しかしだいたいにしてわたしは読むのが遅く、時間のめいっぱいあった大学生の頃や無職の頃は、一日一冊とか読んでいたけど、44歳の勤め人のわたしは「これ、面白い。めちゃくちゃ面白い!」と思いつつも――日々の雑事や空き時間のスマホゲームや子どもたちや妻との語らいや――。というような日常のはざまで、「結局文庫一冊読み終えるのに二週間かかった。」なんてことはザラで、そういう性向も影響してか、作品を受け止めながら、そこから直截連想したり、なぜかまったく関係ないことが気になったり、いま読んでいるのと別の本を開いてみたくなったり、そんなことをしたくなる作品が好きなのです。

 

 それって、フィールドで鳥見をしていて、こっちにキビタキがいたと思ったら向こうにオオルリがいて、下を流れる渓流にエメラルドグリーンの流線形、カワセミが突っ切っていって、目線を動かしたその先の向こう岸にカワガラスが! みたいな目移りする状況と似ているかも、と言おうとして、

「そりゃバーダーならそんな状況は楽しいに決まってる!」

 とひとの声でなく自分の声で即座にツッコミが聞こえてきましたので、無茶な我田引水は止しておきましょう。

 

たとえば書き手は、もっとも大切な部分を書くことが何かしらの理由で憚られるからといって、その周縁だけを書き表す、というチャレンジをするかもしれない。しかし読み手には、受け取った文章がその体験の芯の部分を表すものか、あるいは周縁部分を表すものかはわからない。読み手が手記を読んでいる場面に書き手本人が同席することはあまりないから、その〝わからなさ〟を具体的に解決できることはほぼない。けれど、それで困ることなどないだろう。むしろ多くの場合、その〝わからなさ〟はとても魅力的である。すべてをわからなくてよいということ。この手記にはたくさんの〝秘密〟が含まれているということ。その前提を共有し合うとき、書き手と読み手も、とても自由でいられるのではないか。


瀬尾夏美・高森順子・佐藤李青・中村大地・13人の手記執筆者/著『10年目の手記 震災体験を書く、よむ、編みなおす』(生きのびるブックス、2022年)

 

 それでもこの「手記」を「小説」に置き換えることもできるし、書き手と読み手を、野鳥たちとわたしたち人間との関係に読み換えてみたくなる、今日この頃です。

 

 では、今週も、探鳥の愉しみを音楽にリプレースする企画、「インドア文化系ヴァーチャル探鳥」こと「野鳥と音楽を愛する人のためのApple Musicプレイリスト 」をお楽しみください。

 

プレイリスト「2022.08_Little BirdLittle Bird(すべてをわからなくてよい、たくさんの秘密)」

※以下、選曲は全て、「演者/曲名」で表記しています。
※下記プレイリスト名のリンクより、Apple Musicで聴くことができます(Apple Musicのメンバーシップが必要です)。

2022.08_Little BirdLittle Bird(すべてをわからなくてよい、たくさんの秘密)」(選曲:ソト

M01. Goldfrapp/Little Bird
M02. Caroline Rose/Feel the Way I Want
M03. クラムボン/Lush Life!
M04. 市川愛/I Want to Hold Your Hand
M05. Khruangbin & Leon Bridges/B-Side
M06. YoungBoy Never Broke Again/Kacey Talk
M07. 環ROY/めでたい
M08. STUTS×SIKK-O×鈴木真海子/Summer Situation
M09. Major Lazer/Get Free(feat. Amber of Dirty Projectors)
M10. モトーラ世理奈/いかれたBaby(First Step Dub Mix)
M11. macaroomと知久寿焼/月がみてたよ
M12. tama & すぎはらけい/おはなし


STUTS×SIKK-O×鈴木真海子 - Summer Situation (Official Music Video) - YouTube:ちゃんと(何が「ちゃんと」なのかわかりませんが)、一瞬だけど「鳥MV」な、M08、STUTS×SIKK-O×鈴木真海子「Summer Situation」オフィシャルビデオ。夏。

 

 本連載「Bird Songs in Apples(野鳥と音楽を愛する人のためのApple Musicプレイリスト)」は、引き続き毎週水曜更新予定です。次回もお楽しみに!

 

【Apple Music オフィシャルサイト】

 

【当ブログの「野鳥音楽プレイリスト」記事一覧はこちら。】