ブックレビュー“読む探鳥”:黒川創『かもめの日』/チェーホフ『かもめ』/宮沢章夫『チェーホフの戦争』――「ヤー・チャイカ(わたしはかもめ)」という声が繋ぐ、120年の過去・現在・未来。
- ワレンチナ・テレシコワの「ヤー・チャイカ(わたしはかもめ)」。
- たった一冊の本、そこにあるたったひとことのセリフが、わたしの人生を肯定してくれる。
- 時として野外のフィールドと同等かそれ以上に、生き生きとした野鳥の姿をテキストのなかに見出せる、「読む探鳥」をこれからも。
ワレンチナ・テレシコワの「ヤー・チャイカ(わたしはかもめ)」。
時は20世紀。米ソの宇宙開発競争の渦中、「女性初」の宇宙飛行士として脚光を浴びたワレンチナ・テレシコワの地上への交信の第一声。
「ヤー・チャイカ(わたしはかもめ)」
――というそれが、19世紀ロシアの文豪・チェーホフの戯曲『かもめ』のヒロイン、ニーナが劇中で何度も叫ぶセリフと同じであることは、よく知られています。
「チャイカ=かもめ」はテレシコワのコードネームであり、交信に際して「ヤー・チャイカ(わたしはかもめ)」と発するのは当然といえば当然であって、しかも当時のソ連の宇宙飛行士たち――他は全て男性――のコードネームは、「ワシ」「タカ」「イヌワシ」「オオタカ」など、全て鳥の名前。「かもめ」もそのひとつに過ぎないという。しかし、本当にそうなのか? 勇ましい猛禽類の名が並ぶなか、ただひとりの女性飛行士であったテレシコワのコードネームが「かもめ」であったのは、「かもめ」が女性名詞であるということもさりながら、当時のソ連の宇宙開発に関わる、おそらくはチェーホフのファンであった当局の意思決定に関わる人物が、意図して『かもめ』の悲劇のヒロイン、ニーナに由来させていたのではないか――?
そんな発想から始まる黒川創の小説『かもめの日』のストーリーは、テレシコワが70時間50分で地球を48周まわった1963年6月から急転直下、現代の東京(本書の上梓は2008年)へ時空を超えて着陸し、展開します。
群像劇の形式を採った『かもめの日』は、<主人公>と呼ぶべき複数の人物たちのある一日を並行して追いかけながら、それらがゆるやかに繋がっていくさまを描き出していきます。
彼ら・彼女らは例えば、妻に事故で先立たれたばかりの作家であり、亡くなった女性と恋愛(不倫)関係にあった、くだんの作家の親友であり、14歳で男たちにさらわれてレイプされ、復讐を誓う19歳の女性であり、偶然の出会いから彼女を助けようとする地球物理学者の青年であり、かつて凶行を犯した、仕事と生活に疲れ切ったラジオ局のADの青年、といった人たち。
――こんなふうに小説内の事実だけを列挙してみれば、どれも悲劇のようにしか思えないけれど、チェーホフの『かもめ』がそうであるように、彼らを同列に、一見同じようなバランスで描くことで、(そしてこれも『かもめ』と同じだけれど、劇的な出来事が小説内で次々に起こる、というのとは真逆の静かな物語だけれど、それでも)物語が展開すればするほど、逆説的に喜劇的な印象を帯びていきます。それはちょうど、チェーホフが『かもめ』に、「四幕の喜劇」と正式に付しているのと相似形をなしています。
たった一冊の本、そこにあるたったひとことのセリフが、わたしの人生を肯定してくれる。
そして「小説」の<主人公>とは、小説を一度でも読んだことがある人なら誰でも知っているように――、あるいは映画でも演劇でもテレビドラマでも絵本でもいいけれど、そしてもちろん、実人生でもいいけれど、人間のドラマを知っているひとなら誰でも知っているように――、わたしたち自身の似姿でもあります。
「わたしたち一人ひとりは、わたしの人生の主人公」
そんな気恥ずかしくて口には出せないことばはでも、わたしたち一人ひとりにとって真実であることは確かです。
「わたしの人生がこうなっていること」の要因はきっとわたしに帰属すべきものだけれど、いまここにある「世界」がこうであることは、わたしのせいだなんて思わなくていい――。そんなこと、ほとんどの人にとっては当たり前かもしれないけれど、わたし(いまこの文章を書いているわたし)は、人生の半ばにさしかかるこの歳(44歳)まで、それを混同していたかもしれません。それに、「いまここ」のこの世界を見渡せば、「世界がこうであること」は、ちゃんとわたしに、文学的な意味じゃなくて生活レベルで影響しているのを実感します。パンデミックも戦争も、要人を撃った凶弾も、その遠因にある教団も政党も。しかし世界がこうであることの正当性はこの世界では、証明され得ません。
そのことはもしかしたら悲劇かもしれないけれども、チェーホフの『かもめ』も黒川創『かもめの日』も、2022年のわたしたちに、そのままでリアルな現実として胸に迫るのを感じます――。それが優れた文学作品がもたらす、わたしたちの人生への効用だと思います。
ある人にとって人生でもっとも大切なものは、自身の努力でつかみ取った天職や財産であるかもしれないし、最愛の伴侶や子どもたちであるかもしれない。そしてわたしの人生がどんなにささやかで目立たない、ぱっとしないものであっても、たった一冊の本、そこにあるたったひとことのセリフが、わたしの人生を肯定してくれることもあります。
ストーリー上の「ネタバレ」にはならないでしょうから、あえて『かもめの日』の結末近くから次の箇所を引いておきます。
「――人と別れるのが不安なときは、相手を後ろから見送ったりしないのが、いいんだって。知らん顔して、ほうっておく。それが、一種のおまじない、っていうか。そうしておいたら、きっとまた会えるんだって」
(中略)
「――だからね」女の人は言う。「あなたは、いつもみたいに、川、見てれば?」
そうした。
川のほうへと向きなおり、膝を抱く。白い鳥が、水面すれすれに飛んでいき、だんだん、空に上がっていくのを、目で追った。
黒川創『かもめの日』(新潮文庫)より
「またね……」そういって自転車を駆って去って行く2008年の小説のなかのあの人は、コロナ禍で戦時下の2022年のこの世にはいないけれど、この小説を生んだ作者とともに、そしてそれを読んだわたしとともに、きっと存在しているのです。そして唐突ですが、チェーホフの『かもめ』を論じた、劇作家・宮沢章夫のテキスト(ちくま文庫『チェーホフの戦争』所収の『かもめ』論、「女優の生き方」)からも引用しましょう。かつて恋人、トレープレフが持ってきた「死んだカモメ」のイメージに囚われ、あるいはまた、憧れ追いかけて恋に落ちた作家、トリゴーリンからも捨てられた女優志願の若いニーナは最終盤、「わたしはカモメ……そうじゃない。わたしは女優。そういうこと!」と開き直り、立ち上がります。それをして、<「法(=ドラマツルギー)」から自身を救い出し、「自己実現の焦燥」からも自由になることを意味する。>と宮沢章夫はいいます。絶望したトレープレフが、(舞台の外で)猟銃自殺したことが告げられて、物語は閉じられます。
トレープレフは死んだ。トリゴーリンは道化としてただ立ちつくす。だからこそニーナは、「男」によって組織された劇から解放され、自分の足で舞台に立つことの可能な一人の「女優」として、『かもめ』というテキストのなかにいまもなお生きている。
宮沢章夫『チェーホフの戦争』(ちくま文庫)所収「女優の生き方」より。
時として野外のフィールドと同等かそれ以上に、生き生きとした野鳥の姿をテキストのなかに見出せる、「読む探鳥」をこれからも。
120年以上の時空を超えてフェミニズムを射程に入れ、現代に通じるテーマを描ききって、ニーナに生気に満ちたソウルを吹き込んだチェーホフの『かもめ』。そこにはバーダーにとっては皮肉にも、野鳥の姿はカモメの死骸と剥製しか出てきませんが、わたしが文学作品のなかに鳥を探す、「インドアヴァーチャル探鳥」を続けているのは、時として野外のフィールドと同等かそれ以上に、生き生きとした野鳥の姿をテキストのなかに見出すことができるからです。たとえそれがたった一瞬、水面すれすれを飛んでいく白い鳥(カモメsp.あるいはサギsp.?)の姿であっても。
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