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ブックレビュー“読む探鳥”:坂口恭平『土になる』――すべての美しい鳥=猫=畑=土=坂口恭平。

 

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レビュー用-土になる-2

 

土になる

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自身の新鮮な感情と冷静な知覚を表現するテキストが、読者をエンパワーする。

【レビュー】坂口恭平『土になる』――書籍の物質としての手触りや、重さを想像しながら。 - ソトブログ

 

 わたしはこの本、坂口恭平『土になるについて、読む前にレビューを書いた。それが、上の記事だ。読む前からレビューをするなんて可笑しい――実際には、9ページ分、20分の朗読(ポッドキャスト『blkswn radio』の朗読企画「音読ブラックスワン」)を聴いてはいる――という人もいるだろうと思う。もちろんわたしだってそう思わなくはないが、わたしはいい本なんだから、最高の本なんだから、読む前からそれが分かって当たり前だと思ったから書いた。

 

 読み始めたら1ページ目に、こんなことが書いてあった。

 

 土の表面を歩く、虫が僕と目が合う感じがする。目が合うとすぐに逃げているような気がする。あ、あいつがまた来た、と言っているような気がする。土は喜んでくれてる気がする。かと言って虫も僕が天敵だとは思っていない気がする。僕に殺意がないのは感じ取っているような気がする。畑の隣の廃墟の屋根や、その庭の樹木の陰にいるカラスも僕を見ている。目は合わない、合わせていないが見ている。僕は時々、畑に集中しているふりをして、パッとカラスの方をみる。カラスは、お前見てるのさっきから気づいてるよ、と突っ込んでくる。手を動かして石を投げるような意識を持つと、それもすぐに察知してちょっと離れたところに飛ぶ。

坂口恭平『土になる』(講談社刊、2021年)より。以下引用全て同書。

 

 わたしがこれ以上何か書くより、このパラグラフ一段が全て語っているように思える。それくらい素晴らしいテキストだ。精確な描写とその場所でしか起こりえないエモーションを、修辞的な技巧を駆使しながらそれと意識させず、自身の新鮮な感情と冷静な知覚をいっぺんに、言葉にしている。バーダーのわたしにとっては、何より鳥が、カラスが出てくる。わたしの身近な人と同じ名前を持つ、カラス研究者の松原始さんの文章以外で、こんなに魅力的なカラスの描写は、久しく見たことがない気がする。もしかしたら初めてな気がする。

 

 端的にいって、この本は面白い。そういう意味では、読む前に思っていたとおりだった。著者である「僕」=坂口恭平さんが、畑をやることでうつ(躁うつ病)を乗り越え、変わっていく、周囲の人や猫や野菜を始めとした生き物、風景とともに生まれ変わっていく過程を記録したドキュメントであり、そのまま文学であって、わたしみたいに小説を広く解釈する小説好きの人間にとっては、これも小説、これこそ小説だと思えるテキスト。

 

 そのような文章は、作者の意図に関わらず、わたしたちをエンパワーしてくれる。

 

 読後感はそのようなもので、これは坂口恭平という人にとっての、独自のナラティブ――文芸理論、語りの方法としてのナラティブであり、臨床的なアプローチとしてのナラティブでもあるような――なのだと結論して、通読してその場でエンパワーしてもらった気になって、本を閉じてしまうかもしれない。それでは勿体ない、とわたしは思った。

 

すべて著者、坂口恭平さんにとってほんとうのことだと1ミリの疑いもなく感じ取れるからこそ。

Tsuchi-NI-Fusen

 

 わたしは付箋を貼りながら本を読む癖があるので、この『土になる』もそうして読んだが、270ページ中、付箋は全部で88枚、そのうち、「鳥」ないし鳥の種名が書かれているページには25枚(鳥を数えるのは、わたしが文化系バーダー・ブロガーだからであり、このレビューが、“読む探鳥”だからである)。種名はカラス、ウグイス、ヒヨドリ、ツバメ、カモメ、スズメ、ムクドリ。鳥が出てくるページには気がつく限り全部貼ったはずなので、全ページ中9.2%のページに鳥が出てくる。この本は鳥の本ではない(むしろ著者自身が献辞を捧げている、野良猫の「ノラジョーンズ」のための本だ)ので、これは驚異的な数字だと思う。

 

 そして付箋を貼った箇所を一文ずつ、一段落ずつ読み返すと、やはりこれは現実に即した記録、エッセイなのであって、だからそこには著者自身を超えた存在、そして著者に隣り合う存在――すなわち他の人の言葉があり、猫たちの生きざま、というより動作そのもの、野菜の成長過程そのものが精緻に描かれ(記録され)ている。それも著者の坂口恭平さんの筆力であろうと思う。エモーションにまかせるだけで、こんな文章は書けない。これは技術である。作家としての、生きる者、働く者としてのテクニークそのものである。だからこそ、わたしたちへのエンパワーとなる。

 

 わたしみたいな人間が上段から偉そうにまとめる気はさらさらないが、わたしにとってはそういう本で、定価1,870円でこれが読めるなんて嘘みたいだ、奇跡みたいだ、でもそれは事実であって、ここに書かれていることもすべて著者、坂口恭平さんにとってほんとうのことだと1ミリの疑いもなく感じ取れる。坂口さんが、土に触れること、畑をやることを通じて「地に足をつける」ことができたと、そして「自分自身と完全に一つになった」と感じ、「それが鳥であり、猫であり、虫じゃないか」と発見したことを。そのことをわたしは、このテキストのタイトルに「すべての美しい鳥=猫=畑=土=坂口恭平」と書いた。そして坂口さんみたいにはできないけれど、わたしにもできることがある。そう感じさせてくれる。本当に読めてよかった。何せ付箋88箇所だから殆どすべてのページが素晴らしく、美しいが、そのなかからほんの少しだけ、引用してわたしの拙文を閉じる。できるだけたくさんの読者に、バーダーに読んで欲しいな、と心から思います。

 

『土になる』からの抜き書き(引用)を少しだけ。

 ヒダカさんが近寄ってきた。いつも畑に来ると、ヒダカさんが近づいてきてくれる。これも嬉しい動きの変化だ。人が動くと、相手も動く、虫も動く、猫も動く、カラスも窺っている。虫は逃げる、僕の足音、トカゲの尻尾が見える。すぐにいなくなる。僕が到着する前の風景がそこにあると知る。でも僕はそれを一生それを見ることができないんだと思うと面白い。変化ばかりの毎日だ。畑をやると、この変化を毎日滝のように浴びるのである。変化の雨あられ。

言葉は必要がなく、ただそれぞれの言語だけがある。それが無言で飛び交っている。鳥は鳴き、猫も鳴くが、でも言語は沈黙している。沈黙のまま蝶々が飛ぶようにして、この土の上で下で蠢いている。それを歩くたびに感じるのだから、健康になって当然じゃないか。僕は今、どこかの実家のようなもの、僕のヒトという動物種にとっての故郷のようなもの、つまり、それが土なのだが、土に戻ってきたことによって、僕は外部から、土と一体化しているのかもしれない。同化しているというのでもない。土の中の微生物や細菌、ウイルスがその上を歩く僕の体の中に、そして土の中から野菜の中に、それを食べる僕の口から内臓へ、それらは僕と言えるのか、僕ではなく、無数の生き物の集まりである。僕は自分が解体され、自由に放たれて、今は無数の生き物の生き生きとした集まりであると感じている。

ノラジョーンズは子供たちに僕のことを「近づいてもいい人間」であると伝えたのかもしれない。でも、シャンカルはビビリだから、さらに近づいて「ちゅ~る」を食べるところまでは行かなかった。その後、僕は二匹がゆっくり食べられるようにその場を離れた。ゆっくり食べたらいいよ。

 

【坂口恭平『土になる』は、文藝春秋社より、単行本及び電子書籍として発売中。】

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