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【連載小説】「踊る回る鳥みたいに」――第7回 “好きになるまでは呼び捨てなのに(あるいは、エッセンシャルオイルから化粧水を作るレシピ)”

 

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「踊る回る鳥みたいに」作:津森 ソト

 

【「踊る回る鳥みたいに」これまでの連載(第1回~第6回)】

第1回“どんぐりのスポセン
第2回“チューニング”
第3回“冷凍パインを砕く”
第4回“しおりさんのトリートメント”
第5回“もしも音楽に、苦痛が伴うとしたら”
第6回“透き通った最初の言葉を聞いて”

 

七 好きになるまでは呼び捨てなのに(あるいは、エッセンシャルオイルから化粧水を作るレシピ)

 

 お風呂から出て、片手鍋でビーカーと遮光瓶を煮沸した。アロマオイルをブレンドするのはいつも、遅番の日の夜だ。夜十時に仕事が終わった。帰ってきてヨーグルトを食べた。すべていつも通りだ。ヨーグルトには蜂蜜をかけた。大きな蜂蜜の瓶からスプーンですくい、ヨーグルトにかけようとしても、蜂蜜の粘り気でスプーンからなかなか落ちなかった。二、三度スプーンを振り、それでも落ちてこない分を口に含んだ。口のなかに蜂蜜の甘さが広がった。うん、これもいつも通りだ。
 お風呂から上がると十二時前で、両親はもう寝ていた。キッチンを気兼ねなく使うことができた。自分の部屋にテレビがないから、DVDで映画を観るのもこういう時間だ。両親が起きているあいだはテレビが点けっぱなしで、わたしが映画など観る隙間はないし、両親のいるところで嗚咽するほど泣いたり、心の底から笑ったり、甘酸っぱい恋愛を観てにやにやしたりできなかった。
 スマートフォンの動画配信で映画を観る気にはならないが、それでもお気に入りの映画は何本か、ダウンロードしてある。実際に観ることより、大好きな映画をいつでも持ち歩いていることの、お守りみたいな気持ちの方が強い。
 アン・ハサウェイがファッション雑誌の編集者として奮闘する『プラダを着た悪魔』とか、ブラッドリー・クーパーとジェニファー・ローレンス、社会から落ちこぼれかけた二人が、社交ダンスによって文字通り世のなかとの、人との繋がりを取り戻す『世界にひとつのプレイブック』とか、病み上がりのマリオン・コティヤールが、自分が復職できるよう同僚を説得して回る『サンドラの週末』とか、どれも主人公が何かを乗り越える話だった。

 

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 煮沸したお湯の残りを、シンクのなかに置いたガラス棒にこれも煮沸代わりにかけてから、ダイニングテーブルにお気に入りの手ぬぐいを広げた。九州に旅行したときに買ったものだ。白地に臙脂色で、各県の名物が図案化されたものが並んでいて、下にローマ字で説明書きがある。わたしが首に巻いていると、甥っ子のカズちゃんがいつも「見せてー」「読んでー」と言ってくれるものだ。
 手ぬぐいの上に遮光瓶とビーカーとガラス棒を並べて、食器棚の下の方、床の近くに入っているエッセンシャルオイルを取り出した。こういう「冷暗所に保管して下さい」というものは、どこに置いたらいいのか、といつも迷う。どこまでを冷暗所といえるのか。とりあえずエアコンの入っている時間の長いLDKの食器棚に入れている。
 冷蔵庫からグリセリンと精製水を取り出した。
 今日は化粧水を作るのだ。ビーカーにグリセリンを入れようとして気がついた。遮光瓶はマッサージオイル用で、化粧水に使っているのは百均で買ったプラスチックのスプレーボトルだった。プラスチックのボトルはそろそろ買い換えた方がいいかもしれないな、と思った。エッセンシャルオイルで溶けてしまうことがあるという。そういうのは目でわかりにくいから、ついついタイミングを逸してしまうが、こういうふうに思ったときに買い換えるようにしていた。
 自室からボトルを取ってきて、洗った。もう一度湯を沸かしているあいだに、スマートフォンからBluetoothスピーカーに飛ばして音楽をかけた。直後、スマートフォンにLINEのメールの着信音。後であとで。
 沸かしたお湯でボトルを洗い流して、よく拭いて、手ぬぐいの上へ。今度こそ、ビーカーにグリセリンを入れた。五ミリリットル。それからエッセンシャルオイルを垂らした。ユーカリラジアータを三滴、ティートゥリーを三滴。顔につける化粧水だから、エッセンシャルオイルの希釈率は一パーセントまで。エッセンシャルオイルの一滴は〇・〇五ミリリットル程度だ。スプレーボトルは三十ミリリットル。ガラス棒でよくかき混ぜて、精製水二十五ミリリットルを加えたあと、スプレーボトルに移した。LINEの着信が再び入った。後で、あとで。また言い聞かせた。着信の瞬間、ピコン! という着信音とともに、少し音楽のヴォリュームが下がり、しばらくしてまた音が戻ってきた。スピーカーからはわたしの大好きなシンガー、市川愛さん*1がビブラートしないよく伸びる声で歌う、ジョン・デンバーの"Country Roads"が聴こえていた。好きになるまでは呼び捨てなのに、顔見知りでもないミュージシャンでも、好きになったら「さん」付けしてしまうことを、二年前に別れた恋人に突っ込まれたことを思い出した。何がいけないんだろう。バカみたい。化粧水を一度手首にスプレーして、匂いを嗅いだ。鼻先にスッとした香りが染み渡った、いい感じ。完成した化粧水のボトルを冷蔵庫に片付けていると、またLINEの着信が入った。思わずスマートフォンを手に取り、見た。キシモトさんだった。これからセルフマッサージをするつもりだったが、メールを読んで、返事を書いた。

 

(つづく)
「踊る回る鳥みたいに」第8回は2022.1.28(金)掲載予定(毎週金曜更新)です。

 

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第7回の注釈(作中で触れた映画作品、アロマテラピーの知識など)

 

【作中で言及した映画作品(※下記リンクはDVD版へのもの)

プラダを着た悪魔 (特別編) [AmazonDVDコレクション]

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  • ウォルト・ディズニー・ジャパン株式会社
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世界にひとつのプレイブック [DVD]

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  • ブラッドリー・クーパー
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サンドラの週末 [DVD]

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  • マリオン・コティヤール
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【作中におけるアロマテラピーに関する記述は、セラピストの友人に施術を受け、伺った知識や、以下の書籍等を参考にしています。】

 

【「Country Roads」収録の、市川愛さんのアルバム。】

HAVEN'T WE MET

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【以前の記事から:『世界にひとつのプレイブック』は、わたしの「#名刺代わりの映画10選」のひとつとして、なかでも「オールタイムベスト」の1作として、取り上げています。】

www.sotoblog.com

*1:※市川愛(@AiIchikawa | Twitter)。Jazzシンガーとしてキャリアをスタートし、その後SSWとして活躍を続ける実在のミュージシャン。