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【連載小説】「踊る回る鳥みたいに」――第5回“もしも音楽に、苦痛が伴うとしたら”

 

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「踊る回る鳥みたいに」作:津森 ソト

 

【これまでの連載(第1回~第4回)】

【連載小説】「踊る回る鳥みたいに」――第1回“どんぐりのスポセン
【連載小説】「踊る回る鳥みたいに」――第2回“チューニング”
【連載小説】「踊る回る鳥みたいに」――第3回“冷凍パインを砕く”
【連載小説】「踊る回る鳥みたいに」――第4回“しおりさんのトリートメント”

 

五 もしも音楽に、苦痛が伴うとしたら

 

 それ以来わたしはユーカリとティートゥリーのエッセンシャルオイルをブレンドしたマッサージオイルと、ボディスプレー、化粧水を使っている。調合のレシピもしおりさんに習った。いくつかアロマテラピーの本も読んで、色々な香りを試したが、初めて嗅いだときのユーカリとティートゥリーの香りがよくて、使い続けている。
 けれどプールの当番の日はボディスプレーや化粧水は使えない。プールでは水中エアロビクスや水中歩行、水中運動などのレッスンを毎日実施していて、その日のプール担当のインストラクターがレッスンの指導を行うことになっていた。レッスンの時間は年配の方の利用者の多い午前中や午後の早い時間と、働いている人が来られる夜七時以降に設定されていた。

 

 しかしその男性はいつもそのいずれでもなく、午後三時から六時にセンターに来ていた。
 レッスンのない時間帯はプールの監視をしたり、利用者から指導の依頼があることもある。監視員のスタッフのなかにはインストラクター資格のない人もおり、その人からクロールの泳ぎ方を教えて欲しい、と尋ねられたスタッフの山辺さんから、わたしは指導を依頼された。
「なんかうまく前に進まない感じなんで、どこが悪いか見ていただけないかと思って」
 プールサイドでそういった男性は見た目、わたしと同じくらいか少し上くらいの年齢のようだった。他の人はどうか知らないが、こういうお客さんと接する仕事をしていると、不思議と人を詮索する気持ちは起こらないのでそれ以上のことは思わない。わたしたちインストラクターはレッスンのとき以外は水着を着ていないので、プールの上から指導する格好になって、わたしは、
「じゃあ、一度泳いでいるところを見てみますので、こっちの端っこのコースで泳いでみましょう」
 といって案内した。それでもその方の体型を見ればだいたい運動や泳ぎが得意かどうかはわかるもので、その人は運動ができそうな感じではなかった。
「そうですね。すごく悪いところはないですよ。ただ、足を小刻みにバタバタされている感じですね。バタ足は足の付け根から、大きく動かすイメージを持ってください。そうすれば、少し楽に前に進むようになると思います」
「ああ、なるほど。そうなんですね」
 そうやって二、三箇所指摘するとだいぶスムーズな泳ぎになって、こういうふうにうまくいくとやっぱり嬉しい。
「ありがとうございました。だいぶわかったような気がします」
 と男性はいった。
「また何かあったらお尋ねくださいね」
 その日はそれで終わって、こういう指導はよくあることなのでわたしが、その人はいつもこれくらいの時間に来ている、と知ったのは数日後、男性に直接、話しかけられたからだった。
 わたしがプールサイドを歩いていると、正面から一人の男性が歩いてきた。
 ・色白で標準、やや、やせ型の体型。
 ・身長は一七〇センチくらい。
 それだけ認識して通り過ぎる間際、
「あの、市川さんですよね。先日泳ぎを教えて頂きまして、ありがとうございました」
 わたしはすぐには思い出せなかったので、「え?」口に出しそうになったが自制していった。
「泳ぎやすくなりましたか?」わたしでもそれくらいは接客を伴う職業人としてまっとうできているんだな、と思った。
「ええ。とっても。下手くそですけどね、五百メートルくらいは泳ぐようにしています」
「すごいですね。がんばってくださいね」
 センターでの利用者とインストラクターの会話としてはごく当たりまえの会話で、わたしはそれ以上を期待したことはないし、利用者の方でもそうだと思う。プールの周囲はガラス張りで、外は真夏の午後の陽光だった。中庭が見えた。会釈を交わし歩いていった。中庭には小さな噴水と川、というか人ひとりが通れるくらいの水路のようなものが掘ってあり、四、五人の子どもたちがはだしでことさらバシャバシャ水を撥ねさせて、水路を駆けていく。
 わたしにさっきの、あれくらいの会話が心に留まったのは、男性がわたしの名前を覚えていたからだと思う。グループのレッスンの場合はマニュアル通り、インストラクターとして挨拶をし名前を名乗るが、こうした随時の指導の場合は、なんとなく名乗らないことも多かった。スタッフユニフォームのTシャツには、名札のバッジを付けているから名前を確認することができるが、そこまで見ている人は少ないのではないか。
 でもいないわけではない。――ということはわたしの方で気になったのだ。

 

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 それから朝の通勤時にも音楽を聴くようになった。イヤフォンは耳の奥に文字通り突っ込む、今主流のカナル型と呼ばれる遮音性の高いものではなくて、オープンエア型と呼ばれる、従来型のイヤフォンを使っている。自転車通勤で周囲の音が聴こえないと危ないということもあるが、それならそもそもイヤフォンで音楽を聴きながら自転車に乗るのはマナー違反かもしれない。わたしがオープンエア型のイヤフォンで音楽を聴くのは、外の自然音、生活音とイヤフォンからの音楽が混じるのが心地いいからだ。
 同じ時期にラジオであるミュージシャンが、
「わたしは音楽が、あらゆる芸術のなかで一番偉いって信じているんですよ」
 といったのを聞いた。
「あらゆる芸術家のなかで、音楽家が一番幸福だとも思っている」
 ともいっていた。たとえば小説や脚本を書いたり、演技をしたり、絵を描いたりする行為そのものにはある種の苦痛が伴う。音楽はそれをプレイする行為そのものが快楽なのだという。音楽を聴く行為そのものに苦痛が伴ったとしたら、それは音楽ではない、とも。
 それを聞いて朝の音楽に対する身構えが少しなくなった気がして、朝から音楽を聴くことを試してみた。試してみたら以外にも、あっさりと音楽は耳に馴染んだ。音楽を聴きながらの通勤は楽しい。あるいは、通勤が楽しいから音楽が楽しいともいえるのだろうが、そこまで考えてはいなかった。

 

(つづく)
「踊る回る鳥みたいに」第6回は2022.1.14(金)掲載予定(毎週金曜更新)です。

 

【以前の記事から:「踊る回る鳥みたいに」連載第1回はこちら。】

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