ソトブログ

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いま読んでいる紙のうえの鳥たちが、目の前の窓の外にもいる――トマス・ハーディ『呪われた腕 ハーディ傑作選』

 

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アングラーのように、愛好する対象物を捕らえることのできないバーダーは。

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 鳥見(バードウォッチング)を始めて4年あまりになるけれど、いつまでもビギナーマインドが抜けません。この世界は年齢的にもキャリアの上でも、じぶんよりずっと上のヴェテランの方々が多いこともありますが、たぶんおそらく絶対十中八九、わたしの生来の文化系気質が要因だと思います、文化系マインド、といってわたし以外の優れた文化系の諸氏に失礼になるならば、ナマケモノ体質といってもいいでしょう。

 

 アングラーのように愛好する対象物を釣り上げ=捕まえたりすることのできないバーダーにとって、その趣味の醍醐味は、まずは(1)野に鳥を見つけること(2)観察すること、そして何より(3)野鳥を撮影すること、でしょう。本当は(1)(2)の方が本質的にはたいせつかもしれないが、映画『ビッグ・ボーイズ/しあわせの鳥を探して』で、主人公のひとり、ブラッド(演:ジャック・ブラック)が言うように、
「美しいものを見たら写真に撮りたくなるだろう?」
 そしてあらゆる分野の好事家/愛好家が抗えないコレクションの誘惑。バーダーにとっては「ライフリスト」(生涯で何種類の野鳥を見たか記録すること)がそれではないでしょうか。

 

 もちろんわたしも沢山の種類の鳥を見たいし、所謂「珍鳥情報」を訊けば息子とふたりで出かけたりもします。しかしながら、じぶんの心の裡にかすかに、醒めた部分があるのを感じます――じつはわたしがバーダーになって(もしもわたしのような濁った心の愛好家を、「バーダー」と呼んでもいいのなら)、ほんとうに愉しいのは、いま読んでいる本のなかに、きのう観た映画のスクリーンに、野鳥の姿を見出したときなのです。なぜか、野鳥が正面から扱われていない作品の方が嬉しい。思春期のころ、
自分だけがいま読んでいる小説、いま聴いているロック・ミュージック、眼前に相対している絵画の「ほんとうの魅力」に気付いているんだ。
 と錯覚していたときの気持ちに近いような気もします。そう書いてしまうとミドルエイジ・クライシスそのもののようにも思え、若干の後悔の念を覚えるのもまた、同じことでもあり、アドレッセンスの残り香でもあり。

 

「小説のなかで描写されている鳥たちを数える。」という遊戯。

 

 ――――というわけで、長い前置きになってしまいましたが、トマス・ハーディ『呪われた腕 ハーディ傑作選』(河野一郎 訳、新潮文庫)は、19世紀末英国ヴィクトリア朝時代の作家、トマス・ハーディの短編集。訳は河野一郎による1968年のものですが、2015年に作家・村上春樹と翻訳家・柴田元幸監修による翻訳小説シリーズ「村上柴田翻訳堂」のなかの一冊として復刊された作品集です。

 

 

「読んでいると小説を書きたくなる小説と、そうならない小説があるんですけれど、ハーディを読むと書きたい気持ちがかき立てられるんです。(中略)どうしてだろうって不思議に思うんだけど、たぶん「細部」じゃないかと思うんです。細部が心に残るんです。」

『呪われた腕 ハーディ傑作選』【解説セッション】村上春樹✕柴田元幸より、村上春樹の発言

 

 こんなふうに村上春樹が言い、柴田元幸も、「ストーリーそのものよりも、海辺の家の描写であるとか、ベッドの後ろの壁紙に何か書いてあるのが見つかる情景とか、印象的なのはそういう細部ですよね。」と語っています。

 

 そんなトマス・ハーディを読みながらわたしは、以前この「ソトブログ」で、鳥描写に魅了されたカーソン・マッカラーズ『結婚式のメンバー』(村上春樹訳、新潮文庫)を紹介したときのように、
小説のなかで描写されている鳥たちを数える。
 という遊戯を行っていました。

 

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 マッカラーズのときと同様、ハーディの作品中で鳥が、鳥についての描写がどのように扱われているのか断じてしまうまえに、まずはわたしが見つけた、『呪われた腕 ハーディ傑作選』のなかの鳥描写をピックアップ、引用してみます。

 

細部の印象的なトマス・ハーディの小説のなかで鳥たちは……。

 

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 エラは嬉しさに小躍りせんばかりだった。計画が功を奏し、まだ会ったことのない恋しい人が訪ねてくるのだ。「ほら、あの方が塀の陰に立ち、窓辺をうかがい、もうお姿が格子ごしに見えている」とエラは天にのぼるような気持ちで考えていた――「そして見よ、冬はとく去り、雨もまた降りやみぬ。大地に花ひらき、鳥みなのさえずり歌う時来たり、やま鳩(ばと)の声地に満てり」(訳注 旧約聖書「雅歌」より)

『呪われた腕 ハーディ傑作選』「幻想を追う女」より

 こうしてある晴れた日の朝、教会の扉は通風のため自然に開かれ、さえずりかわす小鳥たちが舞い込み屋根のつなぎ梁にとまっているとき、ひそやかな華燭の式が祭壇の前であげられた。新郎の牧師と近所の副牧師とが一方の入り口から入ってくると、もう一方の口からは二人の介添人につきそわれてソフィが入り、ほどなくひと組の新しい夫婦ができ上がった。

同書「わが子ゆえに」より

「またこれからもちょくちょく出てくるんだね、奥さん。外へ出るにゃ、こんないい時刻はほかにちょっとないからね」
 あたりはしだいに明るさをましてきた。スズメたちも街の通りに忙(せわ)しくさえずりはじめ、二人のまわりで都会がそのにぎやかさを加えてきた。テムズ河にさしかかると、夜もすっかり明け放たれ、折しも聖ポール寺院の方角にまばゆいばかりの朝日がのぼり、河面(かわも)もそのほうに向かって輝き、まだ舫(もや)った小舟のどれ一つとして動く気配のない光景が橋の上から見られた。

同書「わが子ゆえに」より

 四月三十日――今日も燕(つばめ)の翼にのったようにすぎてしまった。なぜとはなく家じゅう――妹ばかりかこのわたしまでも――すっかり興奮してしまっている。十日後にはいよいよあの方がおいでになるということだ。

同書「アリシアの日記」より

わたしたちは――計画どおりキャロラインとシャルルさんとわたしの三人で――ウェリイボーンの森へ出かけ、シャルルさんを中にはさんで、森の中の緑濃い小道づたいに歩いて行った。やがてふと気がついてみると、例によってあの方とわたしだけが話し手で、キャロラインはおとなしく許嫁に寄りそって歩きながら、小鳥や栗鼠を眺めてひとりで楽しんでいた。

同書「アリシアの日記」より

行き先はヴェニスであろう。夫と思い込んでいる人のもとへ行くのでなければ、ほかに家出の理由もない。今にして思えば、ここ数日来、あの子のそぶりになんとなくそんな兆しが見えていた。ちょうど渡り鳥に、旅立とうとする気配がそれとなく感じられるように。

同書「アリシアの日記」より

 

人びとの歓喜、その予感を謳う、鳥たちの姿は時代を超えて。

 

 ――こうして、野外のフィールドではなく紙上で見つけたハーディの鳥たちをいちどに眺めてみて気づくのは、ハーディの、こと「鳥描写」にかんしては、カーソン・マッカラーズのような具体性には乏しい、ということです。

 

 あるいは淡い色合いの春の夕暮れのあと、甘くて苦い塵と花の香りが空中に漂い、あたりは暗くなって窓に灯がともり、夕食ですよと告げる語尾を引きずった声が聞こえ、エントツアマツバメたちが群れ集い、街の上空を飛び回るのだが、ツバメたちがひとかたまりになって、どこかねぐらに帰っていくと、空がとたんにがらんと広くなってしまう。

カーソン・マッカラーズ『結婚式のメンバー』(村上春樹訳、新潮文庫、2016年)より

 

 スズメやツバメなど、特定の種が書かれている場合であっても、書き手であるハーディや、読者であるわたしたちが現実の情景のなかで見かけたことのあるあの野鳥たちのすがた、というよりも、もっと漠然とした、ステレオタイプなイメージのようです。どちらも繊細な細部が魅力であるはずのハーディとマッカラーズのこの差は、数十ページの短編で主人公の一生を描き切ってしまえる19世紀英国の作家と、12歳の少女の「緑色をした気の触れた夏のできごと」を300頁の長編として織り上げる1940年代のアメリカの小説家の違い、なのかもしれません。

 

 そんな、もしかしたらフィクションでも現実でも、ヒューマン・ドラマよりも野に遊ぶ鳥を眺めることのほうに多くの歓びを覚えてしまうような、わたしみたいなバーダーにとっては、本来物足りなさを感じるはずのハーディの鳥描写がわたしは、実のところ、好きなのです。人間の話、つまりドラマツルギーとしてははっきりと、ペシミスティックな色彩の悲劇性を帯びたリアリズムで構築されたハーディ小説において、先に挙げた引用のなかで鳥たちに託されているのは、人びとの正の感情、歓びや嬉しさであり、あるいはその予感、すなわち吉兆です。たとえば恋する人が訪ねてくる直前の――。ある晴れた日の朝、ひそやかな華燭の式=結婚式を祝うような――。

 

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 そして記述が淡泊であっても、あるいはそうであればこそ、19世紀英国の情景も、2021年の日本で、英語の原文が日本語に置き換えられたものを読んでいるわたしにも、遡ること2世紀の英国人読者と同じように歓び愉しみ、心を湧き立たせることができる、そう思います。文学が細部にこだわりながら、人びとの普遍的な心象を描くように、150年前の英国でも80年前のアメリカでも、鳥たちはわたしたちのまわりで、いきいきと、飛び交っていた。そんな当たり前のことに気付かされます。

 

いまわたしが読んでいる紙のうえの鳥たちが、目の前の窓の外にもいる。

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「いいですか。この私もみなさんと同じこの学校でお勉強したのよ。何だか変だと思わない? 思わないですか。何とも感じないでしょうね。そうかも知れないわ。でもこれはたいへんなことなのよ。私は七十歳をずっとずっと越えている、ほんもののお婆ちゃまなのよ。その私がよ。その私が、あなた方の、こうしてお勉強しているこの学校の生徒だったの。そういうこと考えられる? 考えられないわね。考えられる人、手をあげて」
 小学生の手はぐあいよく、あんまりあがらなかった。
「そう、考えられないのよね。だって私は皆さんのおじいちゃまやおばあちゃまか、それよりも、もっと年がうえなのよ。ところがよ、この私だって、いい? あなた方と同じような小学六年生のときがあったのよ。そういうふうに思うと面白いでしょ。いいわねえ。そこで」
 と長岡さんは、とても上手に誘導した。

小島信夫『月光・暮坂 小島信夫後期作品集』(講談社文芸文庫)「落花の舞」より

 すると、突然、彼の心のなかでうれしさがこみ上げてきて、学生は歩みを止めて、息をついだ。過去というものは、次から次へと起きる出来事の途切れることのない連鎖によって、しっかりと現在と結び合わされている――そう彼は考えるのだった。そして、自分はたった今その両端を目にしたような気がする。一方の端がふるえると、もう一方の端がぴくりとふるえるのだった。

アントン・チェーホフ『チェーホフ傑作選 馬のような名字』(浦雅春 訳、河出文庫)「学生」より

 

 文学のなかで、繰り返し描かれてきた、過去から現在へと結び合わされた時の連鎖、英国のハーディと同じ、19世紀の作家、ロシアのチェーホフの作品のなかの学生が、それを見つけたような気がして「うれしさがこみ上げて」きたように、いまわたしが読んでいる紙のうえの鳥たちが、いま目の前の窓の外にもいる、それを感じられること。紙上のバードウォッチングでこそ味わえる、その瞬間のために、今日もあしたも、新しいページを(それが古い本であっても!)開くのです。

 

 

【以前の記事から:野鳥を野鳥として、正面から描く「野鳥文学」の最高峰としては、加藤幸子『心ヲナクセ体ヲ残セ』を挙げたいと思います。】

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