ソトブログ

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「他者」は、生きている人間だけとは限らない――2021年のNintendo DSi購入記と、現実世界と仮想空間の「オビョウク」。

 

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DSi

 

 もちろんその「他者」は、生きている人間だけとは限りません。身の回りの動植物かもしれませんし、本や映画、絵画などの作品かもしれません。いずれにしても文化人類学の視点には、そんな広い意味の他者に「わたし」や「わたしたち」が支えられているという自覚があります。

松村圭一郎『はみだしの人類学 ともに生きる方法』(NHK出版)より

 

「ひとがゲームしているのを見ていて何が面白いのか?」

 

この「ソトブログ」には、わたしとともに野鳥観察に興じている長男の方がよく登場するけれども、その下に6歳になる次男がいます。

 

次男には5歳のときに、デジタルネイティブとしてこういうものに慣れていた方がいいかと、タブレットを買ってあげて、――このこと自体は子育てとしては正しかったのかどうか、今となっては判断がつきかねるのですが――それ以来かれはYouTubeでゲームのプレイ動画(所謂実況動画、という類のもの)をよく見ています。約20年前のPlay Station 2を最後に、家庭用ゲーム機から携帯/スマホゲームに至るまで、ゲーム一切をプレイしなくなった父親(わたし)としては、

ひとがゲームしているのを見ていて何が面白いのか?

と思っているので、息子がタブレットを凝視しているときにはできるだけ、野球だの虫取りだのシャボン玉だのと、かれの関心が他の遊びに向かうように仕向けるのですが、そういうことを続けていて自然とくだんの動画が目に入ってきてみるというと、他のあらゆるジャンルのエンターテインメントと同じように、ゲーム動画にもつまらないものも面白いものもあるのがわかってきます。

 

世の中には、良いことと、良いこととはいえないことが入り混じっている。

 

IMG_20211014_164218セカンドハンドで購入したガジェットも、ステッカーを貼ってみると愛着がわく。

 

自身の関心に合わせて数珠つなぎのように関連コンテンツを提示され、それを自ら欲望したのか、「欲望するように仕向けられた」のかわからないままに見続けてしまうことは、子どもの教育にとっても、オトナの精神にとっても、良いこととはいえないでしょう。

 

世の中には、「良いことと、良いこととはいえないことが入り混じっている」というファクトは、ローティーンに達している長男にはすでに直観され、内面化されているように見えますが、次男は興味の赴くままにゲーム動画を見続けて、生まれてこのかた一度もやったことがないゲームの、かなり細かい知識まで得るようになりました。

 

最初の計画が思いもしなかった方向にずれていく。

 

冒頭に挙げた文化人類学者、松村圭一郎さんの名著、『はみだしの人類学 ともに生きる方法』(NHK出版)のべつの箇所には、こんなふうに書かれています。

 

 文化人類学の現地調査では、こうして最初の計画が思いもしなかった方向にずれていくことがよくあります。むしろ、計画通りの調査をやるなら、現地に行く意味がないとすら言われます。現場に立つと、それまでの先入観や先行研究の枠組みが崩れる。そして耳を傾けた声や目にした出来事から、あらたな見方を手にしていく。

松村圭一郎『はみだしの人類学 ともに生きる方法』(NHK出版)より

 

IMG_20211014_164136本体保護用のシリコンカバーは、楽天で新品(在庫処分らしい)を購入。

 

次男を不憫に思ったわけではなく、どちらかというとわたし自身の関心(というと聞こえがいいけれど、たんに欲望かもしれない)から、20年ぶりにゲーム機を買いました。――といっても、最新のPlayStation 5なんてものではなく、Nintendo Switchでもなくて、「Nintendo DSi」。かつて一世を風靡したモバイル機種も、今やフリマアプリで1,000円程度で贖うことができます。しかし、前述のような最新のゲーム機はもちろん、スマホゲームもやらないわたしにとっては、これでじゅうぶん――次男にとっては、いずれ学齢期になりSwitchを買ってもらう前哨戦と考えているきらいはあるものの、憧れのマリオやルイージをこの手で操り、ゲームと同様に大好きな阪神タイガースの、今やふたりとも監督となった金本や矢野のバットを、自分の操作で「振る」快感に、今は酔いしれているようです。

 

掛け軸の中のサギが慌てて脇へ逃げ出すように。

 

やがて次第に風雨は収まり、それと同時にまたキイキイという音が戻ってきた。硝子戸からとばかり思っていたが、気づくと床の間の掛け軸の方から聞こえてくる。私に掛け軸など持つ甲斐性はない。これは家主がおいていったものだ。水辺の葦の風景で白サギが水の中の魚にねらいを付けている図だ。布団から頭だけそろりと出して、床の間を見ると、掛け軸の中のサギが慌てて脇へ逃げ出す様子、いつの間にか掛け軸の中の風景は雨、その向こうからボートが一艘近づいてくる。漕ぎ手はまだ若い……高堂であった。近づいてきた。

梨木香歩『家守綺譚』(新潮社)より

 

自ら作り上げ命名した選手を育成できる『パワプロクンポケット12』で次は、次男が自宅の庭で「飼っている」(庭木に巣作りをしているのに、バッタなどの餌を与えている)コガネグモ、「オビョウク」の名を付けて育ててみよう、と次男はいいます。獲物をあげるとサッと身を引いて隠れてしまう=「臆病」からかれが命名したというそのクモの名前と、それをゲームのなかの野球選手の命名に結び付ける想像力はわたしの埒外で、現実世界のオビョウクが、液晶のあちら側に存在を始めようとする事象は、わたしが今読んでいる、約100年前の、明治の文豪たちの諸作の登場人物を思わせる書生の著作の体(てい)を成した梨木果歩の小説『家守綺譚』の幻想的な作品世界と、不思議に響きあうようです。

 

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新潮文庫版の『家守綺譚』の表紙では、神坂雪佳のものしたスズメがこちらを覗き込み、今にも動き出しそうです。もう一度、冒頭に引用した松村圭一郎『はみだしの人類学 ともに生きる方法』の一文を挙げて、10年遅れの「Nintendo DSi」購入記を、閉じたいと思います。

 

 もちろんその「他者」は、生きている人間だけとは限りません。身の回りの動植物かもしれませんし、本や映画、絵画などの作品かもしれません。いずれにしても文化人類学の視点には、そんな広い意味の他者に「わたし」や「わたしたち」が支えられているという自覚があります。

松村圭一郎『はみだしの人類学 ともに生きる方法』(NHK出版)より

 

※Nintendo DSiは、Amazon等でも2,000円前後で中古販売されているようです。

 

【以前の記事から:読書の選択肢としてのオーディオブックと、その選択肢の話です。】

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