ソトブログ

文化系バーダー・ブログ。映画と本、野鳥/自然観察。時々ガジェット。

ソトブログ

ブックレビュー“読む探鳥”:三品輝起『雑貨の終わり』――夜空のカラス、野球場のツバメ、わたしたちの近未来。

 

この記事をシェアする

三品輝起『雑貨の終わり』(新潮社、2020年8月刊)(新潮社社公式サイト・本書紹介ページ

 

ある夜、湿度の高い雨上がりの裏通りを歩いていると、いつもとなにかがちがう感じがした。だれかに見られているような不安がよぎって足をはやめる。生ぬるい風が路地を吹きぬけ、濡れたアスファルトにはねかえった街灯光に目をやると、溶け残る雪のように白い物がまだらに落ちていることに気づいた。それはおびただしい鳥のふんであった。道を一筋曲がった先にも、ふんはつづいている。こんな小汚い通りじゃなかったはずだ、と路面をまじまじと観察していると、急に頭上で鴉がするどく鳴いた。見上げると電線が異常に太くたわんでいて、それがびっちりと櫛比する鴉の大群であることを知ったとき思わず声がでた。さらに、近くの歓楽街のネオンのせいか、うっすらと雲が朱色に染まった夜空にも、何百羽という黒い鳥が円を描いて飛んでいた。

 

三品輝起『雑貨の終わり』(新潮社、2021年)「ホテルの滝」より

 

  雑貨好きの雑貨店主の書く、雑貨にまつわる文章を集めて、これほどまでにもの哀しい、うら寂しい書物をわたしは他に知らない。しかしだからこそ、わたしはこの本を、わたしたちの未来をほんのりと照らす、ガイディング・ライトだと思える。


 SDGs、サステイナビリティ、メタバース、Web3……人類の英知を結晶したマクロでグローバルなアクティビズムはしかし、本書の著者、西荻窪「FALL」店主・三品輝起さんのいう、<さまざまな物が雑貨の名のもとに流通し、消費されていく>、資本が運ぶこの世のものすべての<雑貨化>。その奔流に逆らうことはできない。


 いや、ミシェル・フーコーが『言葉と物』Les mots et les choses(1966)で人間の未来について予言したのと同じように、雑貨化の完遂されたすべての物たち(わたしたちの生活を取り囲むありとあらゆるものすべて)は、<波打ち際の砂の表情のように消滅>していく。
 それが、『雑貨の終わり』で活写された現在進行形の事態であり、すべての物が消え去った世界で、わたしたちの網膜に移る輝かしいメタバース世界が、わたしたちの“愉しい未来”だ。これはディストピアだろうか?

 

気がおかしくなるまえに雑貨化とはなにかをつきとめなければならない>と、半ば使命感のような悲壮な決意をもって長い休暇を取り、ロンドン郊外にあるフロイト博物館を訪れた雑貨店主。そこにあるミュージアムショップで、「神なきユダヤ人」として精神分析の創始者となったフロイトが<さまざまな雑貨に分裂し><人形となり、文具となり、カードゲームとなり、腕時計やエコバッグやマグネットとなって>売られているのを目の当たりにした彼はもちろん――たくさんのグッズを両手いっぱいに買い込んだ。さらに自身の土産物とは別に、魁偉な容貌と鋭い目つきでこちらを睥睨するフロイトのポートレート写真がプリントされたマグカップを大量に仕入れたという。


 帰国後、そのマグカップが並べられた自身の雑貨店「FALL」で、
「フロイディアンであることを公言している音楽家に手渡すつもりです」といってマグカップを買った奇特な編集者がいた。>ことを三品さんは書きつけている。フロイトの書き残したテキストを21世紀の日本で(あるいは世界じゅうを見渡しても)クリエイティビティの源泉としているアクチュアルな音楽家というと、わたしには菊地成孔しか思い浮かばない。

 

音楽は通路を選ばず届く、総ての死者に。どうか皆様、様々な気持ちと、お好みのリカーと共に、上を向いてお聴き下さい。

 

菊地成孔『レクイエムの名手 菊地成孔追悼文集』(亜紀書房、2015年)「川勝正幸ラジオ葬」(初出:TBSラジオ「菊地成孔の粋な夜電波」第42回/2012年2月3日)より。

 

 三品さんはこうも書いている。

 

ここには、とくに宗教的な趣旨をもってつくられたわけではない小さな置物を、手に入れた者の想像力でお守りに見立てて愛玩するという、雑貨愛好家にとって、ひとつの理想的な関係があるように思う。(中略)そこで大切になるのは、儀式をじぶんの意志で、じぶんだけのやりかたで、ひとしれずやらなくてはならないということだ。呪術的な物はむやみやたらにシェアしてはいけない。

 

三品輝起前掲書、「ふたりの村上」より

 

 すべての物の雑貨化が進行する現在、すべての物が断片化し消えていき、わたしたち自身の身体性も失われて、あるいはそのこと自体をポジティヴに「必要としない」と捉えるようになるであろうユートピア/ディストピア。そんなメタバースなすぐそこの近未来。そんな地平を意識しながら生きている現在のわたしたちにとって、最後に残された秘儀がこの二冊には書かれている。


 わたしのこの文章が“読む探鳥”である理由は冒頭の引用文に依拠しているが、ここが――そして三品輝起という書き手がすごいのは、(自身にとって20年以上昔の出来事である一夜の、その一場面の)この緻密な描写と、それが突然現れることである。おそらく父親の事業の失敗が原因で、夜逃げ同然のようにしてホテル住まいを強いられた高校3年の秋の1ヶ月半の、とある一夜。人間の傍で人間の暮らしを利用して生きているカラスだが、彼らは野鳥であって、こちら=人間の事情は、経済的なものも精神的なものも関係ない。人間の傍にいる野生の生き物は、わたしたちの感情を映す鏡ではない。


 わたしたちがわたしたち自身のことを書くとき、誤ってはならないのはその事実を受け止めておくことで、それでも記憶に貼りついた出来事を、場面を、そのままに書き写すこと。そこにはきっと、そこかしこに野鳥たちがいる(わたしがこの“読む探鳥、観るバードウォッチング”というシリーズを書き続けられることがその証明だ)。そして思い出したわたしたちにとってそれが、救いになることはあり得るのだ。先に引用した「ふたりの村上」というテキストの、村上のひとりは村上春樹であって、彼の部屋には<机の右奥には唐突にヤクルト・スワローズのピッチャーである小川泰弘の首ふり人形が>鎮座しているらしい。村上春樹がスワローズファンであることは広く知られているが、「スワローズ」とはもちろん、日本の夏を彩る野鳥、ツバメのことである。

 

 

【以前の記事から:鳥たちが、いつだってわたしたちの隣人であること。】

ブックレビュー“読む探鳥”:友部正人『バス停に立ち宇宙船を待つ』――「ここには虫や鳥や果物や草と/人間とを遮るものがない」 - ソトブログ

 

【野鳥に関する本、映画等についてのレビューを、シリーズ「読む探鳥、観るバードウオッチング」としてカテゴリーにまとめました。】

 

【当ブログの読書および野鳥観察についての記事一覧はこちら。】