ソトブログ

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Chromebook日録 #003 “Chromebook is Dub.”――あるいは、クロームブックはチェーホフの短編小説のよう。

 

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“Chromebook is Dub?”

 

plus.google.com

 

上記の、ブログ「おふぃすかぶ.jp」の鈴木彰史さんが立ち上げられた『Chromebookの話をしよう』という、Google+のコミュニティ上でも書いたことだけれど、

 

「ChromebookはDubである。」

 

というアナロジーを思いついた。以下はその投稿の引用。

 

まさに「ライトな話」というか駄話なのですが、なんで自分がこんなにChromebook好きになったのかな、というのを考えてて、(好きな)音楽とのアナロジーなのですが、

 

「ChromebookはDubである」

 

というフレーズを思いつきました。――といっても音楽好きにもChromebook好きにも伝わらないのかも知れません。話をややこしくするつもりはないのですが、こういう種類の雑談・与太話がお好きな方はどうかお付き合い下さい。

 

Dub(ダブ)というのは音楽の手法のひとつで、元々は1960年代のレゲエで始まったもの。レゲエでは当時、ボーカルトラックを抜いたカラオケ音源(Versionといいます)をシングル盤のB面に収録していたのですが、そのヴォーカル抜きのヴァージョンに、エンジニアが面白がって、ドラムやベースなどのリズムトラックを強調するようエコーやリヴァーヴといったエフェクトをかけたり、さらに音を抜いたりして加工したりといったことが手法として定着したものです。

 

今でいうリミックスのはしりで、その後のテクノ、ハウス、ヒップホップといったあらゆるダンスミュージックや、ポップミュージックに取り入れられていったのですが、――何が言いたいのかというと、元々はヴォーカルを抜いたり、メロディラインの楽器の音を抜いてリズムだけを強調したりといった「引き算」の発想、手法に見えたものが、独自の価値のものとして発展していった、という点。

 

ChromebookってMacやWindowsといった既存のOSから、ブラウザだけに機能を減らして、ライトでリーズナブルなものにしただけのようにいっけん見えるけれど、全然別の価値を持ったものであって、なおかつ次の時代のスタンダードになりうるというか、Chrome OSじたいが残るかはともかく、その考え方、思想みたいなものが今を、次の時代を作っていくような、そんなワクワクがあるところが私にとってはダブみたいだな、と。

 


DUB LP LKJ IN DUB LINTON KWESI JOHNSON Shocking Dub
典型的なダブトラック。英のダブ・ポエット(レゲエのバックトラックに乗せて詠じる詩人)、リントン・クウェシ・ジョンソンの曲のダブ・ヴァージョン。

 

結局DubとChromebookがうまく繋がっていないし、単なる語感優先の思いつきでしかないのだけれど、私はこういうバカなアナロジーが結構好きで、侮れないとも思っている。安易な連想でモノをいうのは本当にバカの見本だけれど、完全無欠のロジックで完璧なことを言われてもグッとこない、ピンとこないこともまたあるのだ。

 

“クロームブックはチェーホフの短編小説のよう”

 

 

それからまた、正月に過ごした自宅で(自分の)本棚を物色していて――私は読んだはしからすぐ忘れるし、読みかけや読まないまま積ん読された本も書棚にたくさんあるので、年始から読もう、と思える本を探していたのだけれど、「年に一度は読み返したくなる」という意識で自分ではいるつもりでいながら、その実最近全然読めていなかったチェーホフの短編集が目に入った。

 

チェーホフは一般的に劇作の方が有名だけれど(そしてもちろん滅茶苦茶面白いけれど)、短編が無類に面白い。新潮文庫の『かわいい女・犬を連れた奥さん』をぱらぱら捲りながら、

 

“クロームブックはチェーホフの短編小説のよう”

 

と、またしても気分優先で、思いたくなってしまった。

 

チェーホフはまず雑誌に書きまくったユーモア短編で有名になった。今でいう、「売れっ子コラムニスト」(今、言わないか?)みたいな感じか。それから有り体にいうと「安易な名声に満足できず、本格的な文学を志向するようになる」(新潮文庫カバー裏の作者紹介文より)。而して彼の短編小説は、一見してリアリズムに即した19世紀当時のロシアの人々の日常のスケッチのように見える。もちろん描写や筆致には無駄がなく、その文章は美しく、哀しく、可笑しい。しかしそれだけだと、2018年の日本の私たちには無縁の世界に思えるかもしれない。が、チェーホフの短編にはこんな文章がある。

 

 私はもう中二階のある家のことを忘れかけているが、ごく稀に、絵を描いているときや本を読んでいるときなど、突然、あの窓の緑色のあかりのことや、恋心を抱いて寒さに手をこすりながら夜ふけの野原を家へ帰ったときの自分の足音などを、なんとはなしに思い出すことがある。そして更に稀なことではあるが、孤独にさいなまれ淋しくてたまらぬとき、ぼんやりと思い出に浸っていると、なぜかしら相手もやはり私のことを思い出し、私を待ちつづけ、やがて私たちは再会するのではないかという思いが少しずつ募ってくる・・・・・・

 

「中二階のある家」(新潮文庫版『かわいい女・犬を連れた奥さん』所収、小笠原豊樹訳)

 

チェーホフはこうした遠く離れた人間どうし、時空を超えた思いの重なり合いについて繰り返し書いている。これをオンラインで繋がる現代の私たちと結びつけるのは安易か? そんなことはない。チェーホフは「学生」という短編では、聖書における「ペテロの否認」(イエスが連行されたとき、イエスの弟子であることを否認したエピソード)を取り上げ、現代(もちろん19世紀ロシア)の若い神学生がそのエピソードをある農家の母娘に語ったとき、女たちがしゃくり上げて泣くのを見て、神学生は思う。

 

もしワシリーサが涙を流し、その娘が顔をくもらせたとすれば、たった今自分が語って聞かせた千九百年も前の出来事が現在とつながりをもっているということだ。

 

「学生」(河出文庫版『馬のような名字』所収、浦雅春訳)

 

チェーホフとChromebookは、一見軽い身振りで、時空を超える。

 

1900年の時空を超えるのに、たった100年余りを超えないことがあるだろうか。――というわけで、例えば「中二階のある家」で文庫にして30ページほどの短編であって、たったそれだけの分量で19世紀ロシアの没落する貴族たちや生を切り開く術を持たない女たちなどを描いて、前後数百年、数千年の時や場所を超えるチェーホフの著作を思うとき――、幾分、いやかなり強引だけれど――、小さく、チープですらある筐体で(そうではないものもあるけれど)、時と場所を超えて人を繋ぎ、仕事をするChromebookを、私は想う。

 

【Chromebookとチェーホフの短編集を紹介します。】

私は持っていませんが、小さく、軽いという意味では唯一無二のChromebook。欲しい。

 

私の愛機。タフでキュート、1.2kgと重さはそれなりにあるけど、気軽さ、では一番だと思います。

 

チェーホフの短編入門としては最適な珠玉短編集。

 

ユーモア短編から「学生」のような宗教的モチーフまで、チェーホフの魅力を味わい尽くす18編。

 

【これまでのChromebook日録】