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ブックレビュー“読む探鳥”:池内紀『海山のあいだ』――海山のあいだの黒い鳥たち。

 

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review-Umi-Yama写真はクロサギ。※本文とは関係ありません。

 

 

「人ノ運命ハワカリマセン」――カフカの全訳で知られる池内紀さんの遺した、「優しい」文章の、山の本。

 

Umi-Yama写真は角川ソフィア文庫版。

 

 鳥の本ではない、山の本だ。
 著者の池内紀さんは、カフカ全作品の翻訳などで知られる高名なドイツ文学者であって、山歩きの達人でもあった。2019年に78歳で亡くなられている。この本は、1994年に単行本が刊行され、その年の優れたエッセイに贈られる、講談社エッセイ賞を受賞している。山歩きやその他の、エッセイも膨大に残されている。
 ――こんなふうに書くと、所謂「偉い人」みたいだけれど、文章は優しい。「易しい」ではなくて、「優しい」。軽妙洒脱、というのとも違う。
 本書の第1章は、「追悼記」といって、山仲間だったオーストリア大使館文化担当官、ペーター・リンドル氏という方との思い出を綴られている。リンドル氏は戦時下、ナチス・ドイツの併合下にあったオーストリアで、レジスタンス運動に参加してゲシュタポに逮捕された。拷問によって殆どの歯を失い、総入れ歯だったリンドル氏。その結果、ドイツ語の達人である池内さんでさえ聞き取りに苦労したというリンドル氏の滑舌の悪さをも、池内さんは嫌みを感じさせないユーモアを交えて書く。
 戦時下を生き延びたリンドル氏は、池内さんとの交流の後、日本の次の赴任地だった、ベルギーで交通事故で亡くなられた。そのことさえ、簡潔に3行で書かれている。「人ノ運命ハワカリマセン」というリンドル氏の言葉とともに。故人への愛情がそこに顕れている。

 

海山のあいだの、不思議な黒い鳥たち。

 

 わたしは最近は、どんな本を読んでも鳥を探しているし、どの本を選べば鳥に出会えるかわかるようになってきた。チェコ語でカラス、正確にはコクマルガラスを意味するらしい姓を持つ*1――実際、カフカの父が営んでいた高級小間物商店「カフカ商会」の商標はカラスである――20世紀最高の小説家・カフカの個人全訳に取り組まれた池内さんの山の本なら、鳥たちの姿が描かれているはずだ。という確信があった。わたしはカフカから池内さんの書くものに入った、というより池内さんの訳でカフカに入れた、という経緯なので、池内さんの山の本を読むのは初めてだったけれど。

 

 『海山のあいだ』には印象的な鳥の描写がいくつもある。何度か出てくる、「黒い鳥」がとりわけ目に留まる。リンドル氏と登った八甲田山では――。

 

 ハイマツ帯にかかったころ、霧雨が落ちてきた。ヤッケに小さな無数の水玉をつくっていく。枯れ木に黒い大きな鳥がとまっていた。眠っているように見えたが、不意にヒラリと舞いあがり、羽音をのこして空に消えた。

池内紀『海山のあいだ』「Ⅰ追悼記 八甲田山」より。以下引用は全て同書、角川ソフィア文庫版。

 

 あるいは日本百名山の一峰、谷川岳へ連なる茂倉岳の山頂にて。

 

エゾマツの上に三羽の黒鳥がとまっていた。どれも顔を北東に向けている。風のくる方向にちがいない。そうやって吹いてくる風を羽根に沿ってすべらせるわけだ。反対に腹や尾を風に向けたら、たちどころにこごえてしまう。

 

 「伊勢・熊野放浪記」と題された文章では、池内さんはわたしの住む、和歌山に来ている。霧深い朝の果無山脈を歩く池内さんの前にも、黒い鳥が現れる。

 

ホッとしたとたん、かすかな川音が耳に入った。何の鳥だろう、つんざくように啼きつづけている。腹這いになって耳を地肌に押しつけた。いかにも足下に水音がする。しかし、目の前にあるのは、やはり赤茶けた岩ばかり。黒い鳥が二羽対になって、もの狂おしく啼きながら、青い空へ舞い上がった。

 

 カッコウ、キツツキ、ブッポウソウ、ウグイス、ホトトギス……。『海山のあいだ』には、たくさんの鳥が見られる。当然、カラスもいる。ならば、池内さんの見た、黒い鳥たちは、何の鳥だったのだろう。――いつまでもビギナー・バーダーを抜け出せないわたしには、確定できない。けれど、想像をたくましくすることはできる。カフカが短編に好んで描いた、変わった生きものたちのように、この世ならざるものたちかもしれない。池内さんの簡潔で優しい文章の余白には、そんな思い巡らしを赦してくれる懐がある。

 

池内紀『海山のあいだ』(1994年マガジンハウス刊。1997年角川ソフィア文庫、2011年中公文庫。紙の本は現在品切れも、中公eブックスとしてKindle版他電子書籍が発売中。)

 

【以前の記事から:幻想小説に描かれた、野鳥についての「実在の」逸話。】

ブックレビュー“読む探鳥”: 山尾悠子『飛ぶ孔雀』――現実と空想世界を繋ぐPellets, Inc. - ソトブログ

 

【当ブログの読書および野鳥観察についての記事一覧はこちら。】

*1:※小説家・カフカの綴りは「Kafka」、コクマルガラス(正確には欧州にいる種はニシコクマルガラス。カフカ商会の商標もこの図案)はチェコ語の綴りで「Kavka obecná」。