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映画レビュー『Biutiful ビューティフル』――やりきれない出来事の向こう側。

 

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BIUTIFUL ビューティフル
原題:Biutiful
製作年:2010年
監督:アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ

 

観客は常に「全て与えられる」わけではない。

 

 

映画を観たり小説を読んだりして、「~について考えさせられた。」というとき――この映画でいえば“<父親>であることとは何か”とか、“<搾取>の上に私たちの生活が成り立っていることについて”とか、“犯した罪を償うこと/赦しを請うこと”とか、“信じること”とか、作品内の出来事や浮かび上がるテーマらしきものをフックにして私たちが何かに思い至るとき――私たちはおそらく、それを観たり読んだりするまでそのことについてまったく考えたことがなかった、というわけではないと思います。もしそうだとしたら(「そのことについてまったく考えたことがなかった」のだとしたら)、その作品はとんでもない傑作か、世紀の大駄作なのでしょう。要するに、全く誰も気づかなかった重要なことに気がついてしまったか、誰にとってもどうでもいいことを重大なことのように考えてしまったか。

 

現実にはそういうことはあまりなくて、「~について考えさせられた。」という感想を持つということは、ほとんどの場合、受け手の側が、そのことについて考えることを意識的にも無意識下にも避けてきたことなのではないか、と私には思えます。もちろん自戒を込めて。フィクションは現実の問題を抽出するのが役割ではなくて、世界を切り開いたり、世界を下支えするもので、優れた表現者はそのような意識で作品を作っていると私は考えています。受け手である私たち観客が、作品内に描かれている世界について、事象について、人物たちの背景について、作者たち以上に知っているというようなことはほとんどありませんが、だからといって作品を受け止める姿勢として、「全て与えられるもの」と思っていては、作品から私たちが得ることができるものはとても小さくなってしまいます。

 

具体的なエピソードを積み重ねること。

 

この映画ではスペイン、バルセロナにおける人々の暮らしが描出されています。海外への渡航経験もなく、無知な私にとっては、ここに描かれていること――ハビエル・バルデム演じる主人公でメキシコからの移民、ウスバルの糊口を凌ぐ暮らしぶりや、そのウスバルが生活のために中国やアフリカからの不法移民のために闇で仕事を斡旋していること、彼ら不法移民たちの生活環境の劣悪さ――この映画におけるそれらの描写のリアリティの「度合い」は判断が難しいところです。これでも映画的にソフィスティケイトされたものなのか、あるいは問題として浮かび上がらせるために誇張したものなのかについて、確たる知識を持っていません。

 

ただそれらは興味を持って調べればある程度わかることでしょう。問題はその先で、私たちは<生死><善悪>といったことについて、日々の暮らしに追われるなかで正面から考えることがありません。もちろん<生死><善悪>などと抽象化して考えることが間違いであって、だからこそ映画は具体的なエピソードを積み重ねていきます。

 

――ここで私はこの映画のストーリーを書き連ねようと思いましたが、今回はあえて詳細に触れるのは止めておきます。是非実際に映画を観て下さい。癌に冒され余命幾ばくもない(医者には「2ヶ月」と宣告されている)ウスバルにとって、残される二人の子どもたちのことをどうするかはとても大きな問題で、別れた妻や世話をしていたセネガル人青年の妻に託そうとしますが、どれもうまく行きません。今際の際に残された家族に何を残すのか、は、この映画のタイトルでもある綴り違いの“ビューティフル”(BIUTIFUL)が示している、大きなテーマだと思いますが、観ればわかるとおり、あるいは映画を観ずとも私たちは自分たちの人生で知っているとおり、綴り字のようには<正しい答え>を簡単に見いだすことはできません。

 

やりきれない出来事の向こうにあるもの。

 

しかしやりきれない出来事を積み重ねるこの映画を観ていると、何故か思いがけず、<希望>とか<勇気>とか、<とにかくポジティヴな感情>が湧いてくるのを感じます。
――映画は一度きりの人生を生きる私たちにとっての練習問題のようなもの、身を焦がすような恋愛や破滅的な享楽や犯罪行為、あるいは死を、繰り返し経験することの叶わない私たちにとって、「人生の予行演習」をさせてくれるものだ、という見方もあります。

 

ならばこうした映画を観て、自分の人生においては、「こんなふうにならないようにしよう」とか、「選択を迫られたとき、正しいチョイスをするためにはどうすべきか」の反面教師にしようとか思うような気がしてしまいますが、不幸の連鎖とか過ちの数珠つなぎとしか言いようのないストーリーに希望を感じるとき、たった二時間の動く映像のなかに人生や世界を映し出す作り手たちの手腕と努力、あるいは映画という発明を祝いたい気持ちにさえなります。

 

私はどちらかというと普段、お気楽なコメディ作品が好きなのですが、それは私が少なくとも自己認識としては、「お気楽な」人間ではないためにそうした世界に憧れるからですが、このような重く苦しい映画を観て<生きる歓び>を感じられるうちは、意外と愉しく暮らしていけるのかな、と思っています。

 

「わざわざ暗く、辛い話なんて映画で観たくないよ。」

 

という人にこそ、こういう映画が観られるといいな、と思いつつ――。

 

はてなブログより、素敵な『Biutiful ビューティフル』評を紹介します。

 

aozprapurasu.hatenablog.com

 

id:aozprapurasu さんによる、本作の映画評。私のような感情的なだけの文章ではなく、「間違い続けた男の物語」という視点が素晴らしく、この映画に対する見取り図を与えて頂きました。

 

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【当ブログより、“人生の様々な局面を下支えする映画”たちについて。】

 

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