ソトブログ

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映画レビュー『フライド・グリーン・トマト』――彼女と私は違うけれど、彼女は私自身である。

 

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原題:Fried Green Tomatoes
製作年:1991年
監督:ジョン・アヴネット

 

その人が「もう長らく観ていない」という映画を、こんなふうに詳らかに紹介することができるというのなら、面白いに違いない。

 

この、『フライド・グリーン・トマト』*1といういっぷう変わった――でもその実、「青いトマトのスライスを衣をつけて揚げた料理」という、これ自体にはドラマ性を感じさせないタイトルの1991年公開の本作を、今になって観ようと思ったのは、こちらのブログの記事を読んだのがきっかけでした。

 

www.arukehashiruna.com

 

@reborn4344さんのブログ、「Walk Don't Run」は、記事の内容もさることながら、洒脱な文章そのものが面白く、また、世代的に近いこともあって、共感したり、時に羨ましく思いながら(私はどうしても、こうした文章を書くにも知識も教養もないくせに生真面目になってしまうので)、日々愉しませていただいています。

 

さて、ブログ「Walk Don't Run」で、

 

「好きな映画を5本挙げるとすれば?」と聞かれたならば、ぜひ入れたいと思うのが今回紹介する「フライド・グリーン・トマト」だ。これはずっと昔から変わらない。

 

とまで言われているこの映画。スティーヴン・キング原作のホラー『ミザリー』でアカデミー主演女優賞を受賞した演技派女優、キャシー・ベイツの主演とあって、タイトルだけは何となく聞いたことはありつつもこれまで観ていなかったのですが、私はこの記事を見て、「ぜひ観たい!」と思ったのでした。

 

こちらも(私の大好きな)キャシー・ベイツ主演の快作/怪作コメディ(2002年)。そしてこちらもまた、DVDは廃盤。

 

今、「この記事を<見て>」と私は書きました。そう、<読んで>ではなく。こちらの記事では、観返してみたいと思いつつ、近くでレンタルもしていないし、配信にも見つからないということで、@reborn4344さんの記憶を頼りに、本作のあらすじが書かれています。これが非常に詳細なもので、ちらっと眺めただけでもおそらく精緻にストーリーを追いかけたのだということが見てとれるのです。その人が「もう長らく観ていない」という映画を、こんなふうに詳らかに紹介することができるというのは、それだけでこの映画のチャームを物語っている!

 

配信にもレンタル店にもなくても、TSUTAYA DISCASにあった。

 

なので私はその@reborn4344さんの、それ自体大変な労作と言えるあらすじを、あえて読まず、「これはもう、観ないわけにはいかない!」と思いました。そしてその手段が、私が長らく愛用している宅配DVDレンタルサービス、「TSUTAYA DISCAS」です。

 

movie-tsutaya.tsite.jp

 

今や映像も配信の時代で、ウェブ上にないコンテンツはないもののように思われ、扱われがちですが、当然のことながら100年以上の映画史の遺産はそれに収まるものではなく、未ソフト化、未配信化のもの、あるいは一度ソフト化されていてもすでに廃番のものなどいくらでもあります。そしてこの『フライド・グリーン・トマト』のような、タイトルからして一見地味に思えるようなドラマ映画、文芸映画などは、そうした憂き目に遭うことが多いジャンルでもあります。

 

そんななかでもやはり、TSUTAYA DISCASには『フライド・グリーン・トマト』がありました。こういうことがあるので、私はTSUTAYA DISCASを利用し続けています(もちろん、ここにもないこともあります)。巷のリアル店舗と同様に、宅配DVDレンタルも、既に過渡期というか、縮小、消滅していってしまう形態なのかもしれません。しかし、こうした形でしか観られないものがある以上、これこそが(現時点では)遺産、レガシーというべきもので、今後もおそらくデータ化、配信化されない作品が数百、数千、数万単位であるとして、「観られる可能性」はどうにかして、残っていって欲しいな、と思ったりします。

 

『フライド・グリーン・トマト』はアメリカ映画お得意の「tall tail」?

 

 

 さて、ようやく『フライド・グリーン・トマト』です。

 

結論からいって、とても大好きな映画になりました。

 

子どもたちの独立、倦怠期の夫婦生活と、疲れた日々を送る主婦、エヴリン(キャシー・ベイツ)が、叔母への面会で訪れた老人ホームで、チャーミングで溌剌とした老女、ニニー(ジェシカ・タンディ)から、彼女の昔話を聞かせてもらう――。

 

ホームで暮らすニニーは、快活な女性ではあっても年相応の老いも感じさせて、彼女の話もどこか、彼女自身の記憶違いなのか、惚けがあるのか、ちょっと眉唾にも思えます。そう、これはアメリカ映画、アメリカ文学お得意の「tall tail(ほら話)」の系譜。映画でいえばダスティン・ホフマン主演の『小さな巨人』とか、『インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア』『フォレスト・ガンプ』のような、あるいは主人公に次々と驚異的な出来事や厄災が降りかかるという意味ではジョン・アーヴィング原作の『ガープの世界』や『ホテル・ニューハンプシャー』のような。しかし本作では、彼女が遭遇する災難の数々は、「ウソのような本当の話」として受け取った方が良い。というか、当時の閉鎖的なアメリカ南部の町ではこんなことも起こりうる、そして、それを現代の(映画公開当時の1991年であっても、私が今回観た、2018年11月現在の日本であっても)私たちが観ても、リアリティと驚き、恐怖や共感を持って観ることができるのだとすれば、こんな映画のような出来事は、彼女の身に起こりうるし、私たちにも起こりうる。――わたしはめくるめく物語に翻弄されながら、そう考えざるを得ませんでした。

 

ここで私は、「彼女」と書いているけれど、ニニーが語る昔話の主人公=1930年代アメリカ南部の女性、イジーのことを、ニニーはエヴリンに始め、自分の結婚相手の妹だと語ります。しかし話を聞くエヴリンや、映画を観ている私たちからしてみれば、ニニーの昔話には彼女も、ニニーの結婚相手であるイジーの兄=クレオも登場しないこと、そして、映画の、つまりニニーの昔語りの冒頭で、イジーが愛して止まなかった兄=(クレオではなく)バディが、若くして命を落とす場面が印象的に語られさえすること。そうしたことから、彼女=ニニー自身がイジーであることが想像され、映画のラストシーンでそのことは、やや控えめに示唆されます。

 

「彼女と私は違うけれど、彼女は私自身である。」

 

イジーという、力強くも、時代に翻弄された女性の半生を描くだけなら、ニニーが昔話をエヴリンに語って聞かせる、現代のパートは不要なようにも思えます(たとえそれが「定番の形式」だったとしても)。しかしソフトが廃番になり、配信化もされずに、私がこうして観たようにTSUTAYA DISCASの在庫として、あるいはどこかのレンタル店や中古盤屋の棚でひっそりと、まだ観られていない観客の存在をこの映画が待っているのを想像すると、エヴリン=平凡な主婦という聞き手の存在感が、ぐっと増してくるように思います。エヴリンがニニーの話を聞いて、私たちが『フライド・グリーン・トマト』という映画を観て、「今と昔は違うけれど、今も昔も変わらない。」「彼女と私は違うけれど、彼女は私自身である。」――そんなふうに思えるような、アメリカの「tall tail」の、アメリカ映画の素晴らしさを感じさせる、良作でした。

 

そしてここまで書いて気がついたのですが、ニニー自身にとっても、若き日のイジーそのものが、「今と昔は違うけれど、今も昔も変わらない。」「彼女と私は違うけれど、彼女は私自身である。」のではないか。だからこそ、彼女の語りには意味がある、そう思えます。

 

今回、あえて物語にはほとんど触れませんでしたが(その割に、結末に不用意に触れていますが)、そのあたりは、改めて@reborn4344さんのブログ、「Walk Don't Run」の記事を読んでいただくといいでしょう。でもその前に、実際に自身の目で、『フライド・グリーン・トマト』を観ていただくことを、おすすめします。

 

 

ソフトもいくつかヴァージョンが出ていますが(こちらはHDマスター版のDVD)、全て廃盤で、中古盤も少し高くなっています。再リリース希望。

 

 【こちらも、「人生の黄昏にある人物にその半生を回想させる」形式の傑作。こちらのジャコ・ヴァン・ドルマルはベルギー出身。】

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*1:“fried green tomatoes”の画像検索結果(Google)。なかなか美味しそうな料理です。