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映画レビュー『スリ<掏摸>』――ロベール・ブレッソンのエンターテインメント(!)

 

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スリ<掏摸>
原題:Pickpocket
製作年:1959年
監督:ロベール・ブレッソン

 

※以下、結末のネタバレを含みます。

 

「迫真の演技」によるリアリティとは別種の、ブレッソンのリアリティ。

 

ロベール・ブレッソンの映画というと私は2015年、デジタルリマスター版が上映された『やさしい女』(1969年)を劇場で二回、観ました。精神的に非常にヘヴィな状態だった当時の私にとって、主人公の妻の飛び降り自殺から始まる、ドストエフスキー原作のこの映画は(飛び降りのシーンそのものは描写されないとしても)かなりキツいものでしたが、私は引きつけられるように二度、映画館に足を運んだのです。

 

周知のとおりロベール・ブレッソンは自作にプロの俳優を使わず、演技経験のない素人を起用して彼らを俳優ではなく<モデル>と呼び、棒読みの台詞、無表情で演じさせています。それにより、「迫真の演技」によるリアリティとは別種の、あるいはドキュメンタリータッチや本物のドキュメンタリーとも別種の、ロベール・ブレッソン作品にしかないリアリティを生んでいます。

 

『やさしい女』――2回観たといっても、2年以上前でもう細部は忘却してしまっていますが――において、予定調和やありきたりの共感や救済を用意せず、即物的に描写されるブレッソンの画面を見つめ、BGMのない、代わりに文字通り効果的に使われる自然音としての効果音の印象的な音を聴くことは、端的にいってキツい体験ですらあるけれど、「ヘヴィな状態」にあった2015年の私は、だからこそ惹かれたのだと思います。

 

ブレッソン作品の推進力。

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今回、『スリ』を観てその思いを新たにしました。『スリ』では主人公ミシェルはモノローグによって、彼の考え方やスリという行為にのめり込むことや、ジャンヌという女性への思いを説明しますが、映画を観れば明らかなように、76分という幾分短いこの映画を駆動する推進力は、こうした「言葉」ではありません。

 

巧みなモンタージュと、元スリで著名な奇術師だというカッサジのスリ技術指導の賜物といえるスリのシークエンスの数々の、流れるような美しさと、心地よさ。スリという反社会的行為に、良心の呵責なく没頭していく主人公に共感できる人はあまりいないでしょうが、スリの場面こそがこの映画の白眉、クライマックスであって私たちを魅了するエンターテイメントだ、ということを否定することは、この映画を実際に観ればできないと思います。それくらい、見事。

 

「共感しない、し得ない」映画として。

 

繰り返しますが、だからといって私たちは(私たちのほとんどは、かも知れませんが)、スリじたいに魅了されスリをしようとは思わず、また自らの才能とそれによる全能感によって他者を見下す傲慢さを持つ主人公に共感しようとは思わないでしょう。

 

そしてラスト、ただひとり彼を気遣い思いを寄せていた女性、ジャンヌから「赦され」、そのことによって彼は彼女への思いに気づき、二人は刑務所の金網越しに結ばれる――私は宗教的な救済のような結末に正直に言って、共感しない。あるいは『やさしい女』の、自殺する妻にも、金に執着し妻とすれ違う夫にも、共感しない。し得ない。

 

「演技をしない」ブレッソンの<モデル>たちの演技をして、だからこそ、観客自身が自らの心情を投影できる、という見方もあるけれど、私はどちらかというと、画面にそのようなものとして映された彼らの振る舞いは、そのままのものとして観たいと思います。

 

画面に映り、聞こえるもの。

 

ならば私は何を観ることができるのか――それはやっぱり、画面に映り、スピーカーから聞こえるそのままのもの、めくるめくスリのアクションでありモンタージュであり、生活音であり聞こえないほど巧みだからこそスリリングなスリの場面での衣擦れの音(がしないこと)であって、ブレッソンの映画を観ていると、そこに現れた現実とは別種のリアリティに心が躍り、シビアな現実に潰されそうな自分であっても、観客の求めるものをサーヴィスしないエンターテイメントによって、私は生きる勇気が湧くのです。

 

それは現実逃避ではない。

 

もちろん、ブレッソンの映画を二度観よう、と思うくらいの元気はあったのだろうけれど。

 

 

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