ソトブログ

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『釣りよかでしょう。』の佐賀弁を聞いて故郷を思い出す。――あるいは地方出身者は東京や移住先で、どんな言葉を話せばいいのか?

 

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私自身は釣りについてはまったく素人なのですが、長男は祖父に連れられて自分で釣りをする以上に、『釣りよかでしょう。』(以下『釣りよか』)という人気釣りYouTuberたちの動画に熱中しています。

 

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その魅力については以前も書きましたが、面白さの核は、人気バラエティ『水曜どうでしょう』のような、あるいはウィル・フェレルやセス・ローゲンなどが出演するアメリカのブロマンス・コメディのような、“仲間うちの愉しさ”にあると思っています。

 

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元々は釣りの素人だったという『釣りよか』メンバーが、釣りにハマっていく過程を追ったドキュメント、という触れ込みで始まったYouTubeチャンネルは、数十万のチャンネル登録者を誇り、私の息子のような小学生(低学年)まで魅了して止みません。

 

『釣りよか』で聞く佐賀弁の懐かしさ

 ところで、息子の熱中している人気釣りチャンネルは、『釣りよか』の他、『釣りいろは』『ハイサイ探偵団』『源流ボーイズ』などいくつかあるのですが、それらは『釣りよか』をはじめ、九州のYouTuberが多いようです(たまたま息子が観ているのがそうなのかも知れませんが)。そして『釣りよか』『釣りいろは』は佐賀県の人たちで、私の出身も佐賀県です。

 

彼らは動画のなかで、臆することなく、というかごく普通に佐賀弁で会話し、発信しています。地元のなかで、「仲間うちで集まっていつもやっていること」をそのまま(もちろん動画配信のノウハウはあるでしょうが)配信しているわけで、彼らにとっても視聴者にとっても当たり前のことなのでしょうが、私にはこれが新鮮で、佐賀弁の響きは懐かしいものです。

 

移り住んだ土地の言葉を話す/方言によって異なるマインドセット

 私自身は高校卒業後佐賀を離れて以降、日常生活で佐賀弁を使う機会はありません。ほとんどの地方出身者がそうではないかと思います。私の場合、大学で関西→卒業後、東京で数年→再び関西へと移り住み、その時々でその土地の言葉に合わせてきました。ネイティヴから見ると微妙におかしな関西弁や、標準語なのかも知れませんが、数年も住んでいると少なくとも日常的には、普通に喋ることができるようになります。(※大学ではやはり関西出身者が多かったのですが、私のように他地方から来た者も多く、関西人の同級生の関西弁も、周囲に影響されて時に微妙に変質したりするのも面白かったです)

 

しかしながら『釣りよかでしょう。』『釣りいろは』などの佐賀弁や、『ハイサイ探偵団』の沖縄のことばを聞いていると、同じ日本語といえども、方言によってマインドセットが異なることを肌で感じます。彼らの会話が標準語で話されていたら、ここまで人気にはならなかったのではないか。

 

 思考と言語の不一致/「微妙にフィルターがかかっている」

そして普段、関西にいて(微妙に怪しい)関西弁を喋っている私も、佐賀や東京にいたときとは微妙に違うマインドセットで思考しているような気がします。そしてその思考は、ネイティブで関西弁を使うのとも違うはずです。実際自分のなかでも、微妙にフィルターがかかっているような感覚があります。

 

そもそも関西弁(今日常的に使っているのは家族の話す和歌山弁――和歌山のなかでも地域差があって、この辺りの場合は田辺弁ということになります――ですが)で思考しているかというと怪しくて、アタマのなかが佐賀弁になっていることも普段はまずありませんが、だとしたらどうなのか、標準語でもないし――思考というのは言語と完全一致しているわけではないでしょうから、この辺りを突き詰めるともっと複雑で、見方によっては更に面白いのでしょうが、私にとっては、この、思考に、「微妙にフィルターがかかっている」という感覚が拭いがたくあります。

 

“よかろーもん!”

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それでは「生」(なま)の思考とはどういうものか、どう違うのかはうまく説明できませんが、『釣りよかでしょう。』や、『釣りいろは』――『釣りいろは』のとくさんの佐賀弁は、おそらく私と世代が近いこともあり、『釣りよか』よりも“濃い“佐賀弁で私はとても馴染み深いものです――の佐賀弁の会話に、ところどころ意味がわからないまま親しみ、日常ではネイティヴ和歌山人である息子の姿を見ていると、「ずっとこのままでいいじゃん」(あるいは“ええやん”、あるいは“よかろうもん”)というか、進学や就職のために地元を出て東京などに移っても、共通了解としての標準語(や、あるいは英語なども?)さえ理解していれば、地元の言葉を使い続ければいいじゃないか、というような気持ちになってきます。その方が私が感じているような、「微妙なフィルター」を日常的に感じずに済むのではないか、と。

 

あるいはこうしたYouTuberたちのおかげで、もう多少、そういうふうになって来ているのかな?