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映画レビュー『キツツキと雨』――歓びが生まれる瞬間を何度でも。

 

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キツツキと雨
製作年:2012年
監督:沖田修一
あらすじ:
ゾンビ映画の撮影隊を手伝うことになった林業に従事する寡夫の克彦と、気弱さゆえにスタッフを統率できない若い映画監督25歳の幸一の交流を描く。彼らの交歓が撮影隊、村人たち双方に影響を与え、映画の撮影はクライマックスへと向かう。

 

役所広司扮する林業に従事する寡夫の克彦。朝、ひとり黙々と朝食を済ませつつ昼食の弁当を詰めて妻の遺影に手を合わせます。山林で黙々とチェーンソーを振るい木を切り倒す。夜は同業の仲間たちと酒を飲み、家ではいい年をして無職の長男といつもの言い争い。こうした日常の描写が淡々と、しかし可笑しみと慈しみをもって描かれると、
「映画的な物語はいいから、こんな日常をずっと観ていたいな。」
という気分になります。

 

「何か」が残る映画を観たい。

 

 そういう見方が一般的なものかどうかはわかりません。ただ、日常的に映画を観ていると、一つひとつの映画が全て、完璧なエンターテインメント、あるいは完成された芸術作品であることを求めなくなります。何かひとつ心に残るもの、「グッとくる」ものが観たいな、なんて思いながら日々観ています。

 

その意味では、『キツツキと雨』は、こうした日々を「繰り返していること」が十全に描写された序盤だけで十分に観た甲斐があります。

 

そこにゾンビ映画の撮影隊がやってくることで、映画的には物語が駆動していきます。チェーンソーの音がうるさいと、撮影によって作業を止められる克彦は、東京からの闖入者に多少の不快感を感じながらも、生来のものと感じさせる受け身の姿勢で、徐々に撮影隊の協力者として状況に巻き込まれていきます。

 

身を任せることのできる物語。

 

 私のような姿勢で観ていると、このあたりの「物語の起こし方」が作為的に見えてしまうと途端に白けてしまうのですが、役所広司の演技の巧みさゆえか、克彦というキャラクター設定の的確さゆえか、徐々に観客としても、流れに身を任せていくのにやぶさかではなくなります。

 

そんななか、役に立たない、何のためにそこにいるのかわからない(ように克彦には見える)、小栗旬演じる若いスタッフの存在によって、観客の気持ち、状況判断が宙に浮く感じも見逃せません。「空虚な中心」のように見える彼は明らかに何者かで、勘のいい人ならすぐにわかるのかもしれませんが、あえてここでは触れないでおきましょう。

 

決定的な破局は起こらない。歓びは何度でも生まれる。

 

個々の人物の状況をミニマルに追っていくと、彼らは壁にぶつかったり袋小路に陥ったりしているために、そうは思えないかもしれないけれど、今作はコメディであり、それゆえに「決定的な破局は起こらない」という予感に満ちています。それをして弱点という見方もあるでしょうが、私は(この映画にとっては)そこがいい、と思いました。

 

逆にこの『キツツキと雨』には、歓びが生まれる瞬間が何度でも訪れます。

 

克彦が生まれて初めて脚本に涙し、映画に出演する歓び。監督の、自身の脚本や演出が人の心を動かす歓び。ゾンビとして倒れ、起き上がり、また倒れ起き上がる歓び。奇跡的に雨が上がる歓び。他人や親子の、心が通い合う歓び。

 

そうした歓びを二度三度、何度でも、自分の体験のように味わえるために、映画の始まりで、彼らの日常は丁寧に描写される必要があり、そのことによって、私たちの日常にも、映画的な歓びが浸食すると信じられます。ちょうどゾンビが感染するように。

 

キツツキと雨

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