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映画レビュー『ミスター・ノーバディ』――人生のあらゆる分岐を全て、私は経験した。

 

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ミスター・ノーバディ
原題:Mr.Nobody
製作年:2009年
監督:ジャコ・ヴァン・ドルマル

 

難解さと紋切り型と。

 

ジャコ・ヴァン・ドルマル監督作品を観るのは、『神様メール』『トト・ザ・ヒーロー』に続いて3本目(そして後日、『八日目』も観てみました)。どれも一筋縄ではいかない作品ばかりで、私には簡単ではないのですが、不思議と肌に合う。と思っています。その理由を、ここでうまく説明できればよいのですが……。

今作も、SF的な仕立て、バタフライ効果やエントロピーの増大、ビッグバンからビッグクランチといった宇宙論まで言及されて、ひどく「難解」です。

 

ただ、118歳の老人、ニモ・ノーバディ(「名無しの権兵衛」の意)のランダムに回想する、いくつもに枝分かれした人生の様々なエピソードの一つひとつは、端的にいって紋切り型、ありきたりといっていい。父母の離婚。少年時代に想いを寄せた3人の女性との、恋愛から結婚生活、その破綻。

 定型的といっても、様々な人生の可能性を演じ分ける主演のジャレッド・レトや、サラ・ポーリー、ダイアン・クルーガー、リン・ダン・ファンの3人の女性たち、子役に至るまで役者たちが素晴らしく、一見難解な仕立ての物語の、細部のリアリティに見入ってしまいます。

 

私たちの人生と同じリアリティ。

 

そして、「ありきたりかつ、細部までリアル。」というのは、それもそのはず、私たちの人生じたいがそういうものだからでしょう。そのことに対する誠実さが、ジャコ・ヴァン・ドルマルの映画には感じられます。

 人生の黄昏にある人物にその半生を回想させる、という形式も、『小さな巨人』や『インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア』など、映画でもよく取られるものです。同じドルマル監督の『トト・ザ・ヒーロー』も同様の語り口でした。

 人生のあらゆる可能性を「実際に生きた」ものとして語る老人ニモの回想の、どこまで本当で、どこまでが作り話なのか。こうした仕立てをする場合、語り手が謎めいた人物であればあるほど、その境界は曖昧になります。文学手法における「信用のおけない語り手」と同じく、それこそがこうしたギミックの面白さであって、映画においては客観的事実か妄想かの区別なく映像化されれば、観客にしてみれば、その判断はさらに難しくなります。

 

全てを経験している=起こり得た可能性の全て。

 

その曖昧さ、判然としないことそのものが、私の現実だ、と捉えることはできないでしょうか。私の記憶は、時間のようにリニアには、 私の頭のなかには存在しません。あの頃のあの記憶と、別のあの頃のあの記憶がくっついたり。夢のなかでは時代を飛び越えて、もう会うことのないかつての友人が、同じ職場で働いていたりします。

その意味で、この映画や、たとえばデヴィッド・リンチの諸作(『マルホランド・ドライブ』でも、『インランド・エンパイア』でも何でもいいのですが)の方が、出来合いのフィクションよりも私の人生に近く、親しいようです。

あるいは私の個人的な読書体験に基づくものですが、この映画を観ながら、時間を縦横無尽に行き来する中盤の展開で何度も頭に浮かんだのは、保坂和志『朝露通信』という小説でした。

この本はランダムに、どのページを開いてどこを適当に読んでも面白く、どの順番で読んでもよく、その意味で読み終わる必要さえないのですが、その読んでいるときの感じが「近い」のです。

出版社の作品紹介が、小説の面白さを的確に表しています。

 

たびたびあなたに話してきたことだが僕は鎌倉が好きだ。この小説の主役は語り手の〝僕〟でなく、僕が経てきた時間と光景だ、それ以上に、読みながら読者の心に去来するその人その人の時間と光景だ。人は孤立していない、一人一人は閉じられた存在ではない。人は別々の時間を生きて大人になるが、別々の時間を生きたがゆえに繋がっている。朝露の一滴が世界を映す。

朝露通信|単行本|中央公論新社

 

この映画をして、宇宙の収縮、ビッグクランチをフィクションのなかで表現した稀有な映画だ。――という趣旨の評し方もあるでしょう。しかし私には、ビッグクランチ云々は道具立てであって、この映画は、「起こり得た可能性の全て」それ自体を、「私の人生そのもの」だと言いたいという、エモーションに満ちているように感じられます。

解釈は様々だと思いますが、少なくとも118歳の老人にとって、彼の記憶にある幾通りにも枝分かれした人生、その「全てを経験している」ということが紛れもない事実である。というふうに見るべきだと思いました。ニモは聞き手の記者にこう言います。

 

人生にはほかのどんなことも

起こり得ただろう

それらには同等の意味があったはずだ

 

テネシー・ウィリアムズだ

年を取ればわかる

(『ミスター・ノーバディ』字幕より採録)

 

ジャコ・ヴァン・ドルマル監督が、不死の実現した2092年におけるただ一人の限りある命を持った118歳の老人という設定や、ビッグクランチまで持ち出して、どうして、ある一人の人物の「起こり得た全ての可能性」を、「全て経験したもの」として描きたかったのか。監督の前作にあたる『八日目』に、そのエモーションの源泉が垣間見えたので、また機会を改めて書いてみます。

  

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朝露通信

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