ソトブログ

文化系バーダー・ブログ。映画と本、野鳥/自然観察。時々ガジェット。

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映画レビュー『ベイビー・ドライバー』――独りでいた時間が、彼を育てた。

ベイビー・ドライバー
原題:Baby Driver
製作年:2017年
監督:エドガー・ライト
ストーリー:
強盗の「逃がし屋」をしている天才ドライバーの“ベイビー”。幼少の時の事故によって絶えず起こる耳鳴りに悩まされているが、常にイヤフォンでiPodから音楽を聴くことで耳鳴りを消している。行きつけのダイナーで、ウェイトレスとして働くデボラと運命の出会いをしたベイビーは、社会から足を洗おうとするが、ボスの命令により危険な任務を負わされることになる。

 

オタクのヒーローから、堂々たるメインストリームへ

『ベイビー・ドライバー』、近所のシネコンで、上映期間ギリギリで滑り込みで観てきました。評判と期待通り、最高でした。

 

エドガー・ライト監督作品は、映画を日常的に観るようになったのがここ数年のため、ほとんど後追いですが『ショーン・オブ・ザ・デッド』から『ワールズ・エンド 酔っぱらいが世界を救う!』まで、あるいはそれ以前のテレビドラマ『SPACED ~俺たちルームシェアリング~』も含めて愉しんで観たクチですが、これまでの作品は広範で深いオタク的教養に裏打ちされた、しかしそのぶん、いくらか一般性に欠けるところもある、オタク好み、通好みの映画監督、という印象でした。

ところが今作もその種のマニアックさは引き継いで、ガンアクションからカースタント、ロマンスからチーム強奪ものまで、あらゆる要素を詰め込みつつ、それらを堂々たるメインストリームのエンターテイメント作に仕上げていて、驚くとともになんだか滅茶苦茶感激しました。

 

誰の曲?――音楽を聴き続けた孤独な時間

当然のように評判を呼んでいて、語り尽くされた感もあり、私などが付け加えることはまったくないのですが、まだ序盤のあたりで、いきなり「おっ」と思うシーンがありましたのでそのことだけ触れておきたいと思います。

 

それは主人公、ベイビーが行きつけのダイナーのウェイトレスのデボラと出会い、彼女にTレックスの「デボラ」という曲を聴かせるシーン。

デボラに「誰の曲?」と訊かれたベイビーは「トレックス」と答えます。デボラは「Tレックスね」と返しそのまま会話が流れるので、気にしなければ何ということもない会話なのですが、何せベイビーは耳鳴りのため常に古今東西の音楽を聴き続けてきた青年で、日常の会話を録音して自作のトラックを作成しているほどの音楽オタク。

音楽の粋の味わい尽くしている彼はしかし、おそらくずっと一人で音楽を掘り続けていたのでしょう。ジャケットや歌詞、メロディやリズムの隅々まで血肉としながら、“T-REX”の読みは知らない。何故なら、それが発語されるのを聞いたことがないからです。

 

このシーンは観ていて、一瞬ベイビーが知らないのを意外に思い(あるいは冗談かと思い)→しかし表情でジョークではないことがわかる→そういうことなのか!とハッされられ、上手いなぁ、と思いました。ベイビーがどういう人間なのかよくわかるし、ここでの、ベックの「デブラ」という曲についてのやりとりも含めた――会話で、ベイビーと彼女が恋に落ちるのも必然と感じられます(ここのところがおざなりな映画も多いような気がします)。

 

とにかく二時間弱の上映時間があっという間に通り過ぎた感じで、観落としてるところもたくさんある気がしますが、(アクションの連続でたくさん人が死ぬにも関わらず)美しく、苦く爽やかな映画を観たという感触が残りました。

 

www.babydriver.jp

 

【映画関連のこれまでの記事】

左利きの左利きによる左利きのためのボールペン選び。【後編】feat.“雨の日は会えない、晴れた日は君を想う”

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sotoblog.hatenablog.com

※本記事は上記前編からの続きです。 

 

二幕目「ルックスや書き味だけでも決められないけど、実用性だけでは選びたくない。」

 

先日Chromebookの記事でも書いたのですが、個人のお気に入りの道具、というのは突き詰めるとフェティッシュな部分が大きくて、ボールペンにおいても一人ひとり持ち方書き方筆圧等々も異なるし、「左利きにとってこれが正解」というものがあるわけではないと思っています。

この種の企画・記事で「左利きにはこれがおすすめ!」とピンポイントで製品を選ばれているものもありますが、こういうものは、それぞれ「私にはこれがよかったよ」「これがオススメ」というものを半ば本気で参考にしつつ、もう半分は人それぞれのこだわりを眺めるのが愉しいものであって(少なくとも私には)、私もそういうスタンスで、いくつか取り上げてみます。

また、ボールペンは安価でもあり(もちろん、高級なものもありますが)、パッと見て気に入ったもの衝動買いして試してみたり、ペン軸やペン先の太さ、キャップの有り無し、書き味、色にいたるまで、TPOやただその日の気分で変えてみたりするのも愉しいものです。

 

 

プロローグ

 前回も少し触れたように、10年くらい前まで私は、少なくとも書き味においては「ボールペンなんてどれも同じ」と思っていました。インクの詰まり、かすれについても、「左利きだから仕方がない」とも思っていました。

そのため、たまに見た目が気に入ったものを適当に買ったりしていたのですが、仕事でノベルティでもらったのがきっかけだったか、三菱鉛筆「ジェットストリーム」を使ってみて、油性ボールペンでありながら非常になめらかな書き心地で、「ボールペンって、モノによってこんなに品質が違うもの!?」という驚きとともに低粘度油性ボールペン、というものの存在を知り、しばらく「ジェットストリーム」や、無印良品の「なめらか油性ボールペン」(ぺんてるの低粘度油性ボールペン「ビクーニャ」のOEMと言われています)を使っていました。

 

ぺんてる「ノック式エナージェル」(0.5mm)

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私の購入したのは「ノック式エナージェル限定ネコ柄(三毛)」。ネコ柄、といってもファンシーというよりスタイリッシュなルックスに一目惚れして購入。私にそれまでの低粘度油性ボールペンから乗り換えさせた、初めて“惚れた”ゲルインキボールペン。書き味がさらさらとして心地よく、しかも、左利きの私でもかすれが少ない。発色がよく(視認性が高い)、黒の“彩度”というのがこんなにも違うのか、と認識した一本。とくに仕事のメモ用に愛用しています。

ノック式エナージェル限定ネコ柄|特集|ぺんてる株式会社

 

パイロット「ハイテックC マイカ」(0.4mm)

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こちらも店頭で衝動買い。「きらきらとしたコスメのようなデザイン」と公式サイトで書かれているように、女子っぽいデザインのようですが、私の使っているブルーブラックは落ち着いたカラーリング。そう、ブルーブラックを使ってみようと思ったきっかけがこれでした。ハイテックC自体はゲルインキボールペンのなかでも比較的初期からあったように思いますが(調べたら1994年~)、昔はかすれて使い物にならなかったイメージでしたが、これは全然大丈夫。細字でカリカリ書く人に向いているようで、たしかに小さく、細く書くのが苦手な私でも、細字が書きやすい。また、キャップ式なので、手紙など改まった気持ちで書くときもこれを使っています。キャップを開けてペンの後ろに刺す動作で、なんとなく気持ちが入るというか。(手書きで書く小説の下書きもこれで書きたいけど、今全然書けてない)

ハイテックCマイカ | 筆記具 | ボールペン | ゲルインキボールペン | 製品情報 | PILOT

 

 無印良品「中性ゲルインキ六角ボールペン」(0.25mm)

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ぺんてる「スリッチ」のOEMと言われている、非常に細いペン軸のボールペンです。0.25mmという細さは私自身初体験だったのですが、全くないとは言えませんが、あまりかすれることもなく書けています。用途としては主に手帳への書き込みや、測量野帳などの小ぶりのノートに書くときなど。また、このペンのキャップのクリップが、私が測量野帳にペンホルダー代わりに挟んでいるダイソーで買えるワイヤー製のダブルクリップとジャストフィット

((同じくダイソーのカバー付きのノートのカバーが測量野帳にジャストサイズで、それに付けたクリップにペンを引っ掛けています。

IMG_20171017_224916

))

で、完全にそこが定位置となりました。

中性ゲルインキ六角ボールペン 0.25・黒 | 無印良品ネットストア

 

 三菱鉛筆「ユニボールシグノ RT1」(0.38mm)

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こちらは最近使い始めたゲルインクボールペン。ハイテックCマイカで目覚めたブルーブラックを、この「ユニボールシグノ RT1」のルックスとの相性がよく完全に見た目で選んだところ、これまで使っていたどのゲルインクボールペンよりもなめらかな書き味です。0.38mmということですが、「ハイテックC マイカ」よりも太い印象。本当にさらさら書けて、発色もいいので、小説を書くならこっちかもしれないな、と思ったりしています(早く書け)。

ユニボール シグノ RT1 | ユニボール シグノ ノック式 | ゲルインクボールペン | ボールペン | 商品情報 | 三菱鉛筆株式会社

 

三菱鉛筆「スタイルフィット/スタイルフィット ジェットストリーム リフィル」(0.5mm)

stylefit

ジェットストリームなどの低粘度油性ボールペンは、私の軽い筆圧ではなめらかすぎてペンが走りすぎてしまい、ただでさえ読みにくいと評判の字が、さらに汚くなりがちであまり使わなくなっていました。しかしホルダーとリフィルを組み合わせて使うこの「スタイルフィット」シリーズの極めて細いホルダーだと、小さな字でも細く丁寧にかけることを発見しました。スタイルフィットはとてもスリムなので、カード類や常備薬等を忍ばせていつも持ち歩いているペンケースの隙間に、ゲルインクタイプ(ユニボールシグノのリフィル)やシャーペンのリフィルのものと併せて2、3本、放り込んでいます。

スタイルフィット ホルダー | STYLE-FIT | ゲルインクボールペン | ボールペン | 商品情報 | 三菱鉛筆株式会社

 

三幕目「総括と展望――ボールペンにおける人類の飽くなき探求。というか、これからも色々なペンを試してみたいです。」

 最近のボールペンはどれも品質が向上しているのか、左利きだから文字がかすれる、ということが少なくなっている気がします。ということで、特別「左利き」に特化した記事にならなかったかもしれませんが、やはり若干の違いはあります。私の書き方と、印象でしかありませんが、上記のなかでは無印良品中性ゲルインキ六角ボールペン」が少しかすれやすいかな、と思います。その次は意外ですがぺんてる「ノック式エナージェル」。他はほとんど気になったことはありません。

 

ただ、無意識に、ノートや書類の空いたスペースにくるくるくるっと円を書いたり走り書きして、インクの出を確かめることは今も、どのペンを使っていてもあります。(これも左利きの人の方が多いのではないかな、と想像しますが。)

今回これを書くにあたり、いくつか調べてみたら、左利きでもかすれない、書きやすいボールペンとして、色々なところで取り上げられていたのが「加圧式ボールペン」。圧縮空気などによってインクに圧力をかけることで、上向きでも、氷点下や“宇宙でも”、書けるというペンのようで、三菱鉛筆「パワータンク」などが比較的安価で販売されています。私は使ったことがないので、一度試してみたいな、と思っています。

パワータンク スタンダード | POWER TANK | 油性ボールペン | ボールペン | 商品情報 | 三菱鉛筆株式会社

 

繰り返しになりますが、二幕目の見出しに書いたとおり「ルックスや書き味だけでも決められないけど、実用性だけでは選びたくない。」というのが私のスタンスで、ボールペンは安価な商品が多く、色々と試したり使い分けたりするところにただの「道具」としてだけではない愉しさがあると思っています。今回の記事が、私と同じ左利きの方や、右利きでも文房具、ボールペン好きの方にも参考になれば幸いです。

 

【参考】Amazonの販売ページ。無印良品は取扱無し、スタイルフィットはバリエーションが多く、適当な商品が選べませんでしたので下記には未掲載です。

 「ノック式エナージェル限定ネコ柄」は既に品薄のようです。

 

 

 

三菱鉛筆  油性ボールペン パワータンク SN-200PT-05 黒24

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左利きの左利きによる左利きのためのボールペン選び。【前編】feat.“冷たい雨に撃て、約束の銃弾を”

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一幕目「左利きにとっての筆記。その苦難の歴史」

 

 

両手で書いた黒板の話。

私自身左利きで、様々な道具が右利き用に作られていることから不便に思うことがいくつかあって(あるいは、「不便」であることにさえ気づいていないことも多い)、大学の卒業論文は「社会における左利き」というようなテーマで書いた憶えがあります。そのなかでも筆記は私自身結構長年、悩まされてきたことのひとつ。

私は小学校のとき、書道(毛筆)を習っていたのですが、書道は当然、右手で行います。(実は左手用の書道教本、というのも開発されているのですが、かなり特殊な筆記法であって、私自身は小学生の頃は知りませんでした)

そのため、私は普段鉛筆で字を書くのは左、書道の時は右、と使い分けていたのですが、あるとき、授業参観で黒板に字を書くことになり、左手にチョークを持って書き始めた私はうまく書けないことに気づき(チョークが左から右に走らない)、右手に持ち替えて書き、教室がざわついたそうです。私自身は覚えていなくて、父から聞いた話ですが。

 

 左利きの筆記の典型「押し書き」。

チョークで字がうまく書けなかったのは、左利きの筆記の典型のひとつ、「押し書き」に理由がありそうです。

右手に筆記具を持ち、右手で字を書く場合、筆記具を右に傾けて、左から右に筆記具を「引く」動作が多くなります。反対に左手で筆記する場合、筆記具を右利きと同じように持つと左に傾ける格好になり、そのまま左から右に筆記具を動かすと、右手の場合と逆に「押す」動作になります。

 

【右手】
/ → → →

 

【左手】
\ → → →


黒板においては筆圧で黒板とのあいだでチョークの先端が引っかかり、うまく前に進まなかったというわけです。

 

私の場合(冷たい雨に撃て、約束の銃弾を)

これは紙の上でも同じで、私の場合、引っかかりを減らそうと書いているうちに、自然にかなり右上がりの字体で書くようになっていました。水平に左→右に動かすより、斜め上に書くことによって圧力を逃がしていたのだと思います。しかも、本来「とめ」の部分を「はらう」感じにすることによって、筆圧がかからないように書いています。これは意識してそうしているというより、「自然とこうなってしまった」という感じです。

 

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ただこの文字、私自身は読めるのですが、読みにくい方がかなりいらっしゃっるので(妻にもよく言われます)、社会人になってから、かなり強引にもう一パターン書体を開発しました。それがこちら。

 

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こちらは少しペンを立て気味にして書いています。こちらが読みやすいかどうかは疑問ではありますが。

私だけでなく、左利きの人の典型的な筆記スタイル(ペンの持ち方、走らせ方など)にはいくつかのパターンがあるようで、皆、なんとか自分なりの書きやすい書き方を工夫しているようです。

 

左利きはボールペンが書けない!

さて、ここからやっと本題のボールペンについて。

 

90年代くらい、ちょうど私が中・高校生の頃に、水性ボールペン(ゲルインク)が流行し始めて、みんなこぞって使っていたのですが、私には当時の水性ボールペンはことごとくダメで、一見、なめらかに書けそうなのですが、すぐにかすれてインクが出なくなります。なので最近までずっと、ボールペンは油性以外使っていなかったのですが、油性ボールペンは書き味のなめらかさに欠けるため、筆圧の低い私にはやはり書きにくい筆記具である時代が長く続きました。

ところが近年、文房具の進化はすごくて、三菱鉛筆「ジェットストリーム」以降でしょうか、なめらかな書き味の油性ボールペンや、左利きでもかすれにくい水性ボールペンが増えてきました。

 

――と、ここまでが、映画でいう一幕目。というか、たんに左利きの私にとって使いやすくて、ルックスや書き味も気に入っているボールペンを紹介したかっただけなのですが、前置きが長くなってしまいました。具体的な紹介は次回、後編で。(アイキャッチ画像でネタバレしていますが。)

 

※後編更新しました。(10/17)

sotoblog.hatenablog.com

 

 ド定番、エポックメイキング。私も今は使っていませんが、大変お世話になりました。

 

冷たい雨に撃て、約束の銃弾を [DVD]

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“Chromebookにおいてテキストエディタ「Jota+」がウインドウサイズ可変で使えるようになった”、たったそれだけのことがこんなにも快適さをもたらすということ。

 

きみの言葉全部 ただ待っているんだ
ただ待っているんだ
心分かれては 高鳴っていたんだ
高鳴って 痛んだ

けもの「Someone That Loves You」歌詞より
(※HONNE&Izzy Bizuの同名曲の日本語詞カヴァー)

 
これを買うまで自宅のノートPCを毎日開くなどということはなかった私の生活を変えたChromebook、Asus C202SAにAndroid用テキストエディタ「Jota+」を入れてから早1ヶ月あまり。こちらも既にこれなしでは考えられなくなるくらい愛用しています。

 

sotoblog.hatenablog.com

 

という私の冷静さを欠いた物言いからわかるように、愛用の道具に対して人はフェティッシュになってしまうもので(たんに私がそういう人間なのかもしれないですが)、ましてテキストエディタ、という、PCを触る上でそれをしない人はいない、テキスト入力に使うアプリとあっては、人の好みは千差万別でしょうから、「万人にとって最高」というものはなかなかあり得ないのではないでしょうか。それでも様々な専門知やセオリーやロジックから、最適解を目指して開発されているであろうディベロッパーの皆さんのおかげで、私のような末端のユーザーは恩恵を受けているわけです。

 

テキストエディタに何を求めるか(私のフェティッシュ)。

それでテキストエディタについての私のフェティッシュはというと、兎にも角にも「文章を書くことに没入できる」道具かどうか、ということに結局は、尽きてしまいます。とはいえフェティシズムにまかせて感情的にだけ書いてしまうと他人にとって有益性がゼロの文章になってしまいますので(私自身はそういう文章は嫌いではないのですが、他の人はそうでもないでしょうから)、一応私にとってテキストエディタに求めるポイントを整理してみます。(ちなみに私はプログラミング等は一切やらないので、テキストエディタはこういうブログの文章とか、メモ、メールの下書き、小説の執筆等の文章入力にのみ使っています。)

 

1. 思いついたときにすぐ書けること
→起動の速さ、ファイルの開閉、保存、字数カウント等が簡単に、ほとんど何も考えることなく行えること

2. 書くときのストレスのなさ
→没入感、テキスト入力に付随した情報検索のしやすさ

3. 読みやすさ
→読みやすいフォントサイズ、改行、画面(ウインドウ)サイズ

 

ウィンドウサイズが可変になった、ただそれだけのことなのですが。

これらのほとんどを「Jota+」は私のなかで満たしていたのですが、今般、ChromebookにおけるGoogle Play Storeのβ版が取れたことによるものなのか、これまでアプリの画面サイズについて、「ウィンドウ最大化」か「アプリ固定サイズ」(縦長のスマホサイズ等)でしか表示できなかったものが、自由にリサイズできるようになりました。
これが私にとっては、「書くときの没入感」「読みやすさ」の向上に繋がったのです。これまでもウィンドウ最大化状態であっても、折り返し文字数を設定することで、可読性を高めることはできていたのですが、どうしても画面右に余白ができてしまうことで、微妙な「気持ちの座りの悪さ」があったのですが(やっぱりフェィテッシュですね)、それがなくなりました。

 

全画面表示すると、テキストが左端に寄ってしまい、右端の余白が気になっていました。

 

画面上に余計なものがなく、テキスト入力により没頭できるように。

 

また、Chromebookは基本、デスクトップにアイコンなどを置くことができないため(付箋アプリなどはあるようですが)、文字数の折り返しに合わせた画面サイズにすることで、視界に不要なものがない状態で執筆に専念することができます。しかもタッチパッドの快適なジェスチャーですぐにブラウザを開いて情報検索も可能です。

 

字数カウントが一瞬で出来れば…

私にとってはほぼ何も言うことのない「Jota+」ですが、一つだけ気になる点があるとすれば、字数・行数カウントについて、「メニューボタン→ファイル→プロパティ」という手順で行うのですが、これが入力画面中にワンアクションで出来たらいいな、ということくらいでしょうか。とくに小説を書くときなどは、字数は絶えず気になるものなので(と言いながら、このところずっと書けていないのですけどね)。

※追記(10/16):「設定>ショートカット>空いているキー>プロパティ」と設定すると、Ctrl+そのキー、で一発でプロパティが開けるとのこと、開発者@jiro_aquaさんにご教示いただきました。私はCtrl+Pで設定してみました。これで私にとって、Jota+死角なし、かも。

 

Someone That Loves You.(けものについて)

Chromebookのことを書くときに、どうしても「けもの」について触れたり、歌詞を引用したりしたくなるのですが(理由はこの過去記事で触れています)、けものの歌詞世界は、私のような既に現代に生き遅れ、常に現在時に違和感を感じている者にとって、福音のように響きます。音楽とは信仰によく似ているなぁ、と思います(私は特定の宗教への信仰を持っていませんが)。

 

sotoblog.hatenablog.com

 

めたもるシティ

めたもるシティ

 

 

映画レビュー『上海の伯爵夫人』――カズオ・イシグロ脚本で描く、世界史よりも広大な個人の内的世界とは?

上海の伯爵夫人
原題:The White Countess
製作年:2005年
監督:ジェームズ・アイヴォリー

 

先日ノーベル文学賞の受賞が決定した日系英国人の作家、カズオ・イシグロがオリジナル脚本を担当した作品。

 

カズオ・イシグロというと私は『わたしを離さないで』の原作小説とその映画版を観たきりで、どちらもとても面白かったのですが、SF的ともいえる虚構性の高い作品世界が、私には少し「ためにする」設定のように感じられてしまったこともあって、その後他の作品を追っていませんでした。しかし『遠い山なみの光』とか『日の名残り』といった作品は、タイトルやあらすじだけ漏れ聞くと、リアリズムに立脚した上品でウェルメイドな小説、というイメージは持っていて、いつかは読もう、とは思っていたもののひとつではありました。

 

そんななか、ノーベル文学賞を受賞したということで、ご多分に漏れずその作品世界にもう一度触れてみようと思い、今回まず、『上海の伯爵夫人』を観てみました。

 

過去と自尊心に因われた人たち

 

過去の栄光を忘れられない没落ロシア貴族、というとチェーホフの戯曲のようですが、『上海の伯爵夫人』の伯爵夫人(未亡人)・ソフィアの家族たちも、過去と自尊心に囚われています。

 

ソフィア(ナターシャ・リチャードソン)はロシア革命によって夫を亡くし、娘と、夫の一族と共に上海に亡命しています。彼女はナイトクラブでホステスとして働くことで、家族を養っているのですが、彼らはソフィアに感謝するよりもむしろ、ホステスに身をやつしている彼女をふしだらな女だと蔑んでいるのです。義母や叔母たちは、品格やプライドにばかり拘泥して、そもそも働こうとさえしないのに。そのさまは現代のわたしたちからすれば滑稽ですが、取り巻く環境の変化についていけず、「これまでの自分」を否定できないがゆえに、状況のせいにしたり、身近なスケープゴートを作って不満の捌け口にする――などということは、いつの時代のどこであっても起こり得ることで、身に覚えのない人はいないのではないでしょうか。

 

ソフィア自身は現在を懸命に生き、幼い娘・カティアの未来のために尽くそうとしていますが、祖国を逃れたどり着いた1930年代の猥雑な上海の外国人租界にあって、先の見えない状況にもがいています。決して十分とはいえない収入で夜遅くまで働きながら、店では、「そんな粗末なドレスを着るな」と注意され、家に帰ってもゆっくり休むことのできるベッドさえ与えられず、他の家族が起きるまで彼女は椅子の上にかろうじて身体を横たえるだけ。そしてカティアを可愛がる叔母には、カティアの教育上良くないと、「着飾っているときにカティアに近づかないで」と忠告されます。

 

夢の店=箱庭的な理想世界

 

一方でかつて外交官としてヴェルサイユ条約の調印式にも立ち会ったという米国人、ジャクソン(レイフ・ファインズ)は、不幸な事故で妻子をなくし失明していらい、自暴自棄の生活を送っています。

 

上海で自身の理想の「夢のバー」を開くことを夢想していた彼の前に、ふとしたきっかけでソフィアが現れます。彼女こそ、彼の店の理想の「華」だと感じたジャクソンは彼女を口説き落とし、"The White Countess"(白い伯爵夫人)と名付けた彼の店で働かせることになるのですが、互いに憎からず思いながら、ジャクソンとソフィアは互いのプライベートに立ち入らず、仕事上のみの付き合いで、一線を越えようとはしません。ところでこの彼の「夢のバー」"The White Countess"の成立から繁栄過程がまさに「夢」のようで、そもそもジャクソンにとって手の届かない夢でしかなかった店の開店資金を、彼は全財産を賭けた競馬で勝つことによって手にします。

 

本作でレイフ・ファインズ以上の好演を見せたという評価も高い、真田広之演じる謎の日本人、マツダが関わるのもこの店をめぐって。一流の酒とバンド、そしてショーガール、ホステス。"The White Countess"が軌道に乗り始めた頃、夢の店を実現させるきっかけを与えたマツダと再会したジャクソンは、彼に「この店にはまだ足りないものがある」と言います。それは「政治的緊張感」だと。ジャクソンの意図を理解したマツダは、"The White Countess"に各国の要人たち、とりわけ中国国内で対立する国民党と共産党の幹部たちまでもが集まるように手配します。そんなことができるマツダという男が、只者ではないことは、有能な外交官であったジャクソンにはわかるはずです。

 

しかしそれよりも、何もかも失って現実に目を背けた彼が、彼の作り上げた箱庭的な理想世界において、現実の似姿としての秩序や混沌を求める志向こそが、この映画の特異点だと思います。

 

現実よりも広い内的世界

 

考えてみれば目の見えない彼にとって、ソフィアこそが理想の女性であるのはなぜなのか? どうして彼の馬券は当たったのか? ジャクソン自身にコントロールできるはずのない事象でさえ、必然であったように感じられます。1930年代の上海の情景、風俗を再現し、リアリズムを追求したように見える画面の底は、ジャクソンや彼に関わったソフィア、マツダの内的世界で支えられています。

 

世界史的な舞台のなかで、歴史に名を残さない個人のふるまいの後ろにある、もしかしたら現実世界よりも広い彼らにとっての「世界」を描く手つきは、優れた作家の仕事だと感じられました。カズオ・イシグロと、本作の監督ジェームズ・アイヴォリーが最初に組んだ、『日の名残り』も観たくなりました。そしてどうやら寡作らしい、カズオ・イシグロの小説も。こちらとしてもじっくり、取り組んでみたいです。

 

上海の伯爵夫人 スペシャル・コレクターズ・エディション [DVD]

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【こちらも英文学史上の巨匠、グレアム・グリーン原作。映画『ことの終わり』レビュー。】


 

【映画関連のこれまでの記事】

市街地から車で10分の奇景、“奇絶峡”(きぜつきょう)

 

河口から7km、車で10分の奇景の峡谷。 

孤高の博物学者、南方熊楠のフィールドとしても有名な和歌山県の紀南地方、田辺市や白浜町には様々な景勝地がありますが、市街地のある河口から7km程度、車で約10~15分で行けるところに、その名も“奇絶峡”(きぜつきょう)という奇景の峡谷があり、先日の3連休の土曜日に家族で行ってきました。

 

会津川は奇絶峡の上流では秋津川地区を流れ、ここではなだらかな山間を緩やかに流れているが、奇絶峡では両側の山が急に迫っているために、それより下流にありながら上流域のような渓流美を見せる。また、両側の崖面から転げ降りたと思われる、巨大な転石が並んでいるのも独特の景観をもたらしている。

奇絶峡 - Wikipedia

 

などとWikipediaにあるとおり、巨大な岩がごろころしたなかに、川が流れており、所々浅くなったり深くなったりしています。夏場などは子どもたちの格好の水遊び場所です。もちろん自然の景観ですから、安全面では十分な注意が必要です。先日は10月とは思えない陽気でかなり暖かかったのですが、それでも水温はかなり冷たい。

 


うちの子どもたちは2歳児と小学校低学年。下の子は浅瀬でパチャパチャ、長男も、調子に乗りやすい年頃なので、十分に注意させながら遊びました。

 

図らずも“実写版ポニョ”を体験。 

入り組んで水の流れが堰き止められたようになっている場所もあって、小魚やカニを捕らえたりして遊んでいましたが、そこになぜか一匹の金魚がいました。おそらく誰かが放してしまったものでしょう。とりあえず長男がなんとか捕まえて持参した容器に入れたりしていましたが、結局は放すことに。誰かが持ち込んだものでしょうから、自然に放つよりも、私たちが持って帰って育てた方がいいのかも、とも思いましたが、どういう出自かもわからないし、息子もなんとなく気が進まないようでしたので。
次男は、ちょうど最近、『崖の上のポニョ』にはまっていることもあって、
「“実写版ポニョ”だねぇ」
というと喜んでいました。

 

 

ささやかな愉しみとしての景勝地。

川のすぐ側に迫る絶壁には、不動明王を祀る不動滝もあって、参道を100メートルほど回り込むと、滝の上に、不動明王の磨崖仏が彫られています。今回は下の子がまだ小さいのでそこまで行けなかったのですが、これはなかなか壮観です(磨崖仏は約7メートルほどの高さがあるそうです)。

 

何百人、何千人がどっと押し寄せるような観光スポットとはいえませんが、こういう場所が自宅からすぐに行けるところにあるのは嬉しいものです。磨崖仏の写真も以前撮りましたし、ネットでも少し検索すれば見ることができますが、これはあえて、載せたくないな、と思ってしまいます。地元で、現地に行って見るささやかな愉しみのような場所。とはいえ、他の土地に行ったときに、こういう場所が見られたらちょっと嬉しいだろうな、と思います。

 

奇絶峡には独特の植生、生物相もあるようですから、子どもたちともう少し勉強して、じっくり観察してみたいものです。

 

【奇絶峡】
場所:和歌山県田辺市上秋津
アクセス:公共交通機関…JR紀伊田辺駅から龍神バス龍神温泉・前平行きで15分。バス停「奇絶峡」下車。/自家用車…阪和道南紀田辺ICから県道29号経由7.5km15分。駐車場あり。

朝。起きて、息子と二人。カワウの群れを追って。

Wikipediaより。カワウのV字飛行。

カワウ - Wikipedia

毎朝、カワウの群れを見ながら学校へ

日曜日の朝。前の晩に約束していたとおり、6時半に起きて小学生の長男と二人、カワウの群れを追いかけに行きました。

彼は毎朝、7時過ぎに家を出ると、緩やかな勾配の登り坂の上にある小学校の近くで、空の向こうにV字隊列を成して飛行するカワウの群れを見送るそうなのです。そして2週間ぶりに帰宅した私に、それを見に行こう、というわけ。

私が6時半に起きて、着替えて息子を起こそうと思っていたら階上から自分で降りてきました。ウィークディはいつも起こされている彼も、休みの日となると自発的に起きられる。「義務教育」というくらいで学校はやはり行かされているもの(たとえそれが愉しくて仕方がない人にとっても)。彼の気持ちは私にもよくわかります。私も働かされているからね。

アオサギ/イワツバメ 

息子が毎週視聴を欠かさないという『旅猿』と『遠くへ行きたい』を観終わった7時半に、車で出かけることにしました。通学路を息子の日常と同じように辿るなら、徒歩か自転車がいいはずで、自転車で出かける約束でしたが、前日も夜更かししていた息子の目は腫れぼったく、「クルマで行こうか」と。私も否定せず、「じゃあクルマで行こう」と応じました。

息子いわくのカワウの目的地である、近くの川の下流域、河口近くの、JRが通る鉄橋の下に駐車して、河原を歩きます。小学校を通り過ぎ、自宅から5分ほどの距離ですが、ここまでの道中でカワウの群れは見ませんでした。カワウは朝、ねぐらから出て、川で漁をしているのだろうと息子。ウナギや、カワムツ、ハヤなんかを獲っているだろうと。橋の下にはカワウはいませんが、大きなアオサギが一羽、橋の太い柱の土台の上に悠々と立ち尽くしていました。向こう側にはシラサギも見えます(ダイサギかな)。上空には、ツバメが群れで乱舞しています。イワツバメでしょうか。

 

ひときわ大きいアオサギは、いつも堂々として見えます。

 

電線の上にもイワツバメ。

カルガモ/ヒドリガモ

川面を向こうまで眺めながら、上流まで歩いていくとカモが泳いでいるのも見えます。2羽のカルガモ。つがいかな。ヒドリガモのメスもいました。電線の上にはキジバト。『デーデーポポー」という鳴き声(さえずり)が彼らだというのも、息子と鳥を見るようになってから、知りました。

 

カルガモ。ペアなのかな。

 

ヒドリガモ。今日はメスのみ。

目の前をカワセミが横切った/車の上のイソヒヨドリ

もう一本の橋の下を越えると、以前息子と二人でカワセミを見たあたりまで来ました。カワウの群れはここにもいません。もちろん河原にも、上の電線にも、どこにもスズメはいます。カラスもいます。前から来た散歩のおばさんが、食パンらしきものをちぎって、集まってきたドバトに与えています。いつもそうしているんだろうね。息子と言いあいました。「知っているから、集まってくるんだろうね」と。

ここまでカワウの群れに出逢わないことを、残念そうにしない息子には案の定、当てがあるようで、もう少し上の下流の二本の川が合流する地点が、ウナギや他の魚がたくさんいるところがあるから、そこにいるかもしれないと言いました。確かに上流の方を眺めていると、シラサギが集まっているように見えます。カワウもいるかもしれません。

車まで戻る途中、エメラルドグリーンの小さな塊が素早く視線を横切るのを見ました。カワセミです。「あ、カワセミ!」と私は思わず叫びましたが、息子は追いきれないようでした。でも今日ここでまた見れたということは、またそのうちに見れるでしょう。私たちの車の屋根に、イソヒヨドリのメスが止まっていました。写真を一枚撮って、車に乗って息子の言う場所まで行きます。

 

車の屋根の上のイソヒヨドリ。

カワウのV字隊列/最高のモーニング

川沿いを走っていくと、やはりいました。大小のシラサギ(シラサギは、その名も「ダイサギ」「チュウサギ」「コサギ」などの種類がいます)とアオサギと、カワウの群れが、川の中にひしめきあっています。「降りる?」と息子に聞くと、「今日はいいや」と言うのでそのまま車で流して、信号のところで川を横断し、Uターンしているときに、「父ちゃんあそこ!」と息子が言いました。

左上空を見上げると、数十羽から百羽単位の黒い影が、群れを成して飛んで行くのが見えます。カワウです。「ホント! いっぱいいるなぁ」。写真は撮れませんでしたが、見れてよかったね、と言いあって、朝から何も口にしていない息子と二人、行きつけのカフェへ。こんなに早い時間に来たことがない、などと言いながら食べたモーニングは最高に美味しかった。ごちそうさまでした。

 

電線の上のドバト。カワウのV字飛行の写真は撮れませんでしたが、いい朝でした
 

はじめよう! バードウォッチング (BIRDER SPECIAL)

はじめよう! バードウォッチング (BIRDER SPECIAL)

 

 バードウォッチング初心者の私たちが、めちゃくちゃ参考にしている本。文章もステキだったりします。

 

【過去記事より】

sotoblog.hatenablog.com

【書評】『ダンケルク』をきっかけに再読したい、物語を超越した「戦争小説」7選。

今週のお題「読書の秋」

 


映画『ダンケルク』に物語がない、というのは実はウソというか、雑な言い方で、端的な語り口の問題だと思います。しかしながら、戦争を題材にしたフィクションには(少なくとも私の好きな作品には)、物語を逸脱していく傾向があって、戦争というテーマをフィクションに仕立てるという「一大事業」において、作り手にとって、ある種の誠意/倫理観/個人的体験との折り合いetc.を突き詰めると、そうした形になる必然があるように見えます。今回は私の好きな小説のなかから(「戦争そのもの」ではないものもありますが)、憧れと敬意を込めて、紹介してみましょう。
※作品名の後ろの括弧内は、原著の刊行年です。

ウィリアム・ウォートン『クリスマスを贈ります』(1982)   

クリスマスを贈ります (新潮文庫)

クリスマスを贈ります (新潮文庫)

 


第二次大戦末期、仏・アルデンヌ。アメリカ軍の偵察隊として送り出された若い兵士たちが、無人の城を占拠し、そこでドイツ軍で対峙する。クリスマスの夜、独軍と鉢合わせした彼らが、ふとしたきっかけから敵方と意気投合して、死を避けるためにウソの戦闘を行うことにするが……という、いかにも映画的なストーリー。戦争の現実というより、若い兵士たちのやりとりの瑞々しさ、生々しさが妙の青春小説という趣き。だからこその苦い結末もあって、忘れがたい作品です。そしてやはりというべきか、キース・ゴードン監督により、『真夜中の戦場/クリスマスを贈ります』(原題:A Midnight Clear、1992年)として映画化されています(日本未公開)。一度VHSで国内盤もリリースされていたようですが、現在は廃盤。この原作小説も絶版ですが、ぜひとも復刊して欲しい一冊。

ティム・オブライエン『カチアートを追跡して』(1978)   

カチアートを追跡して (新潮文庫)

カチアートを追跡して (新潮文庫)

 

 
村上春樹の翻訳・紹介でも知られるティム・オブライエンの、ベトナム戦争を舞台とした長編。戦場から離脱し、ベトナムからパリまでヒッチハイクで逃亡しようとする脱走兵、カチアートを追跡する友軍たち。『クリスマスを贈ります』以上に奇想天外な筋立ては、ベトナムと第二次大戦という、小説の書かれた「現在」からの距離感のゆえでしょうか。史実的なリアルさと、戦地の兵士のリアル、それを描くリアルとは、それぞれ違うのだと感じさせます。

田中小実昌『ポロポロ』(1979)  

ポロポロ (河出文庫)

ポロポロ (河出文庫)

 

 
著者の中国戦線での体験を描いた連作短編集。本ブログの『ダンケルク』レビューで唐突に、本作から「寝台の穴」を取り上げましたが、田中小実昌の「物語になること」を拒否する姿勢は徹底しています。ノーランと違うのは、戦場での弛緩した時間をそのまま描いていることで、著者本人の実体験だから、というより、戦争を描いてこのように、悲壮感や切迫感よりも、淡々とした事実やそこから生まれるおかしみを、即物的に描いた文章は、著者の唯一無二のものだと思います。

大西巨人『神聖喜劇』(全5巻、1978~1980)  

神聖喜劇〈第1巻〉 (光文社文庫)

神聖喜劇〈第1巻〉 (光文社文庫)

 

 
キューブリックの映画『フルメタル・ジャケット』に代表される、“新兵訓練モノ”の系譜にして、その金字塔、極北。全五巻、400字詰原稿用紙にして4,700枚の超大作。1942年1月、長崎県、対馬要塞の重砲兵聯隊に補充兵として入隊した藤堂太郎らの陸軍内務班での過酷な新兵訓練を描いています。主人公・東堂太郎は超人的な記憶力を武器に、上官たちや軍の論理そのものの不条理に抵抗していくのですが、東堂の記憶力や意思は本当に圧巻で、フィクション史上最強のスーパーヒーローだと思います。私の友人が、結婚披露宴の自己紹介に「尊敬する人物:東堂太郎」と書いていましたが、その気持ちもわかる。 

高橋源一郎『ジョン・レノン対火星人』(1985)   

ジョン・レノン対火星人 (講談社文芸文庫)

ジョン・レノン対火星人 (講談社文芸文庫)

 

 
高橋源一郎の幻のデビュー作。デビュー作『さようなら、ギャングたち』以前に書かれ、『すばらしい日本の戦争』というタイトルだった作品を加筆修正し刊行された作品。「すばらしい日本の戦争」という登場人物(!)が出てきますが、どこからどうみても戦争小説ではないように見えます(Wikipediaであらすじを見てみてください)。見えるけれど、日本の戦前・戦後史や、著者自身が参加し、その後デビューまでの約10年間、書けなかった全共闘運動が踏まえられていることは明らかでしょう――そういうこを意識せずとも、「T・O(テータム・オニール)」やら「ヘーゲルの大論理学」「石野真子ちゃん」らが登場する作品世界の荒唐無稽さに、10代だった初読時の私は心躍ったものです。

赤坂真理『東京プリズン』(2012)   

東京プリズン (河出文庫)

東京プリズン (河出文庫)

 

 
こちらはより真剣に(高橋源一郎が真剣じゃないということではありません。為念)、「天皇の戦争責任」に言及した小説。そんな小説が、現代(2012年初刊)に書かれるということが驚きですが、アメリカの高校で、新旧をかけたディベートの課題として、16歳の少女が取り組んだ課題がそれだったという筋書きもまた、驚き。意外にも読みやすく、小説という器によって、人間の考えることのできること、の幅は大きく広がるものだということを再認識しました。 

柴崎友香『わたしがいなかった街で』(2012)   

わたしがいなかった街で (新潮文庫)

わたしがいなかった街で (新潮文庫)

 

 

36歳の独身女性(離婚して1年)が、契約社員として日常を描きながら、部屋で毎晩のように戦争ドキュメンタリーを観て、海野十三が書いた戦時下の日記を読んでいる、という設定が突飛に感じられますが、それこそが作家自身の関心なのでしょう。そしてそれは、はっきりとした目的意識を持ったものではなく、ただ観ずにいられない、読まずにいられない、緩やかだけれど、強い関心。それは私たちの「いまここ」の日常が、過去や異国の地のような、遠く離れた時空間と繋がっている、という感覚への信頼によるのではないか。そうしたことを、私たちの隣にいるような、ごくふつうの女性の日常のなかで描いていることに凄みを感じます。

 

【関連記事】

sotoblog.hatenablog.com

 当サイトの『ダンケルク』レビュー。田中小実昌に触れた『ダンケルク』レビューは他にはないと自負しています(無理矢理)。

 

sotoblog.hatenablog.com

 祖母と祖父の思い出と、第三の新人の作家たち。祖父の戦争体験について。

 

【映画関連のこれまでの記事】

映画レビュー『カイロ・タイム 異邦人』――アメリカの"YOU"ことパトリシア・クラークソンが魅せる、大人の関係。

カイロ・タイム 異邦人
原題:Cairo Time
製作年:2009年
監督:ルバ・ナッダ
あらすじ:
女性誌の編集者、ジュリエット。彼女はパレスチナのガザ地区で働く国連職員の夫と休暇を過ごすため、エジプトの首都、カイロを訪れる。ところが夫はトラブルで到着が遅れることに。異国の地で独り、夫を待つことになったジュリエットは、以前夫の部下であったエジプト人のタレクに街を案内してもらう。 

 

ハリウッドの”YOU"、パトリシア・クラークソンの主演作。

 

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はじめて観た彼女の出演作は何だったか、パトリシア・クラークソンは日本のタレント・女優のYOUにすごく似ています。見た目だけでなく、雰囲気、喋り方まで、互いに入れ替わっても違和感のないくらい。とくに、エマ・ストーンの母親役を演じた『小悪魔はなぜモテる?!』(原題:Easy A、2010年)やウディ・アレンの『人生万歳!』(原題:Whatever Works、2009年)で見せたような、奔放で、無責任だが憎めない母親役を演じる彼女は、まさにYOUそのもの。たとえばYOUが演じた『誰も知らない』(2004 )の母親を、パトリシア・クラークソンが演っても違和感がないのではないでしょうか。

 

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  四面楚歌なエマ・ストーン演じる主人公を見守る、ちょっとぶっとんだくらいリベラルな両親を、パトリシア・クラークソンとスタンリー・トゥッチが好演しています。

 

人生万歳! [DVD]

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『小悪魔はなぜモテる!?』よりさらにいかれた母親(田舎の保守的なお母さん→前衛アーティストに転身)を演じて嫌味も不自然さもないパトリシア・クラークソンはやっぱりYOUみたい。 

 

この『カイロ・タイム 異邦人』では、先に挙げた2作のような彼女のコメディエンヌ的な側面よりも、“大人の女性”としての、地に足のついたドラマに焦点が当てられます。とはいえ、初めてやってきた中東の都市、イラクの地で、彼女は表面上、落ち着いたそぶりを見せますが、内心は不安を抱えています。ホテルに閉じ込められたようにしているのにも気が滅入り、夫に「独りで外を出歩いてはいけない」と言われていたものの、外に出て見れば男たちが好奇の目でゾロゾロとついてきては、ナンパをしてきます。(そのときの彼らの距離感の近さが、欧米とも、日本とも違うパーソナルスペースの感覚を如実に表してもいます。) 

 

メロドラマでも、観光映画でもない。

 

夫の到着が更に数日単位で遅れそうだとわかり、夫の代わりに出迎えてホテルまで案内してくれた、かつて夫の許で警備として働いていたエジプト人、タレクに街を案内してもらうことになり、彼についてカイロの街を散策します。そして、ストーリーとしてはほぼこれだけで、あとは、表面上は何も起こらないといっていい。なのにこれほど、スリリングで、しかも落ち着いた、エジプトの空気のごとく文字通り熱のこもった映画を、私はあまり観たことがありません。

 

二人の道行きを通して、観客はタレクの経営するカフェや、街の露店、砂漠、ピラミッドなど、カイロの様々な場所、風俗を見ていくことになって、一見するとただの「観光映画」のようにも見えます。しかし、バスの隣に座った訳ありの若い女性に手紙を託されたり、そのバスが軍隊に止められてバスを下ろされたり、淡々とした作品であっても事件らしいことが起こらないわけではない、ということだけではなくて、本作には通奏低音のように流れる濃密な空気感、ジュリエットとタレク、二人の間に流れるそれが醸し出す、じりじりとした緊張感で、本当に90分間、目が離すことができません。

 

熟年といっていい二人の間の距離は、夫の部下だったエジプト人男性と、かつての上司の妻のアメリカ人女性という不均衡さを越えて、近づいていきます。ふつうのメロドラマなら、それが一線を越えてしまうことをドラマとするでしょう。そして異国の地、しかも情勢不安定な中東が舞台ということになると、いくらでもドラマチックな展開を作ることもできそうです。しかし、この映画ではことごとくそれをしない。ただ、互いに好感をもった大人の男女が、共にひとときの時間を過ごす。しかし決定的な言葉は口にせず、行動も起こさない。

 

一線を“あえて”越えない、ということ。

 

しかし本作は、「薄味のメロドラマ」ということではなく、この「一線を越えない」というエレガントで、スマートな大人の振る舞いこそが主題だと思うのです。エジプトはこの映画のあと、ムバラク大統領の独裁体制が崩壊します。シリア人の父とパレスチナ人の母を親に持つ女性、ルバ・ナッダ監督が、伊達や酔狂でカイロを舞台に選んだということはないでしょう。もちろん、この映画自体に、表面的にも、深層にも、政治的なテーマを置いている、というふうには見えません。しかし、越えようと思えばいくらでも越えられる一線を、“あえて越えない”という個人の選択の先にあるものまで、見通している、とさえ感じられます。あるいはエジプトの風景が、町並みが、人々が、この映画では本当に美しく捉えられているからなのか。そして成熟した大人のあるべき理想的な姿のひとつとしてのパトリシア・クラークソンの存在感。やはりこれからも、見逃すことができない女優です。

 

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【映画関連のこれまでの記事】

映画レビュー『スウィート17モンスター』――“あの頃に戻りたい”なんて思わせない。青春映画の正しいあり方。

スウィート17モンスター
原題:The Edge Of Seventeen
製作年:2016年
監督:ケリー・フレモン・クレイグ
あらすじ:
17歳の高校生、ネイディーンは妄想癖と自己嫌悪感で空回り気味のスクールライフを送っている。唯一の親友、クリスタが、イケメン・勝ち組で自身の目の敵である兄ダリアンと恋に落ちたことから、疎外感に苛まれ、ドツボにはまっていく……。

 

www.sweet17monster.com

 

あの頃に戻りたいと思わない。 

 

夜見る夢のなかでは、学生に戻っていたり、会社の同僚に今はもう会うこともない学生時代の友人たちがいたりして、それについてどう解釈するべきなのか、私にはわかりませんが、私は大人になって、「学生時代に戻りたい」と思ったことはありません。“リア充”とかそういう話ではなく、今が「あの頃思い描いた理想の自分」でもなければ、「あのときああしていれば今頃自分は――」みたいな気持ちは人並み(か、それ以上)にありますが、それでも、自我を持て余す発達途上のティーンエイジというのは、苦しいものです。

 

小学2年生、7歳の息子は、先日行われた運動会が嫌でいやで仕方がなかったようでした。しかしそれをぶっちぎって、ズル休みするようなアウトサイダーにもまだ、なれない(そういう発想はないのでしょう)。

 

父親である私に対する息子のコミュニケーションとして、彼が私を誘う“トイケン”というルーティンがあります。先日も、下記の記事で触れました。

 

sotoblog.hatenablog.com

 

私は現在単身赴任で週末だけ家族の許に帰りますが、週末の二日間のルーティンのなかに、息子との“トイケン”があります。息子に誘われる“トイケン”とは「トイレ見学会」の略。ただ息子が用を足すのを私が同室して見ているだけ(その間に私に息子が悪態を吐いたり下ネタを行ったりするだけ)なのですが、寝る前や出かける前のこのバカバカしい十数秒は、私にとっては、そしておそらく長男にとっても貴重なものなのです。

 

“トイケン”のときに息子は、しきりに、「風邪をひいて休めればいいのに」「ケガして行けなくなったらいいのに」とこぼしていました。運動会前日の夜には、風呂上がり、裸のままなかなか着替えようとしませんでした。おそらく「このまま風邪をひかないかな」という彼なりの“牛歩戦術”だったのでしょう。私も妻も、それを指摘することはしませんでした。ただ、「早く着替えなさいよ」とだけ。彼もあえて言いません。

 

運動会だろうが何だろうが、子どもにしたって「誰にとっても愉しいイベント」というものはありません。それはもう、そういうものです。ただ当日は少し気になって、応援席での息子の様子を遠巻きに探りに行ったりはしましたが(隣のクラスメイトと「指ずもう」をしたりして笑っていました)。

 

彼女自身の「今」を共有することは誰にもできない。

 

『スウィート17モンスター』の主人公、ネイディーンは妄想癖と自己評価の低さゆえに、幼い頃からなかなか友だちができません。唯一の親友が、小学生の頃から「同類相憐れむ」という感じで一心同体のように付き合ってきたクリスタですが、彼女が、ネイディーンが目の敵にしているイケメン/リア充の兄ダリアンと交際を始め、彼女との仲もこじれていきます。

 

ネイディーンにとって、身近な一番の理解者は、父でした。何かと干渉し世話を焼き小言をいう母や、天敵の兄に囲まれた家族のなかで、父親は娘の味方につき、他の家族との緩衝役になってくれます。娘を送迎する車のなかで、父親は陽気にビリー・ジョエル“You May Be Right”を歌います。

 

You may be right
I may be crazy
But it just may be a lunatic you're looking for
Turn out the light
Don't try to save me
You may be wrong for all I know
But you may be right


"You May Be Right" Lyrics by Billy Joel

 

「君は正しくて/僕はクレイジー/僕は変わり者だけど、だからこそ君が探している人かもね」という歌詞からも、父が娘に寄り添う姿勢が伺えます。ただ、(当たり前のことですが)彼はもう子どもではありません。他の誰とも同じように、ネイディーンのような孤独を彼がいつの日か味わって大人になっていたとしても、彼女自身の「今」を共有することは、決してできないのです。

 

大人たちを「わかってくれない」者としてだけ描かない。

 

その父とも数年前に死別しており、クリスタとも決別したネイディーンは、さらに負のスパイラルに突入していきます。私自身も(誰だって少なからず)経験したこのような思春期特有の息苦しさを、再び経験したくない、という意味で、私は「あの頃に戻りたい」とは思わないのですが、この『スウィート17モンスター』の特筆すべきは、主人公ネイディーンや、若者たちのリアリティを尊重しながら、周囲の大人たちを、ただ、「わかってくれない」者としてだけ描いていない。ということです。

 

身勝手に見える母親も、不干渉でやる気のなさそうな教師(ウディ・ハレルソンが好演しています)も、自身と真逆の「天敵」に見えた兄ダリアンも、一様な存在としてではなく、彼らなりのやり方で、ネイディーンを理解して、寄り添い、関わろうとします。その意味で、『スウィート17モンスター』と、奇を衒ったものに見える邦題も、大人たちがネイディーンたちに向ける眼差しを表した、的確なものだと思えます。

 

「青春映画だから」観ないのはもったいないし、ただ「青春映画」として観るのももったいない、良作。

 

スウィート17モンスター [DVD]

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スウィート17モンスター (字幕版)
 
Ost: the Edge of Seventeen

Ost: the Edge of Seventeen

 

 

【映画関連のこれまでの記事】

Chromebookでのテキストエディタ「Jota+」の使用感。「書きたいと思ったときにすぐ書ける」を実現する最良の組み合わせのひとつかも。

jota-playstore

 

愛用しているChromebook、Asus C202SAでAndroidアプリが使えるようになり、その使用、特にAndroid用テキストエディタとして評判の高い「Jota+」を入れるかどうか迷っていることは先日書きましたが、結局は試してみなきゃわからない。と思い使い始めています。

 

sotoblog.hatenablog.com

  

実はこの「Jota+」、開発者の方(@jiro_aquaさん)ご自身もAsus C202SAのユーザーだとのことで、Chromebookでの動作も検証されているようです。

だからなのか、インストール後2週間弱、「Jota+」を使用していますが、Asus C202SAはタッチパネル非搭載の端末でありながら、非常に使い易く、ストレスなくテキスト入力ができています。

 

  

長文入力に必要な機能が過不足なく揃った良アプリ。

ポイント

- 1. 改行、スペース、行番号等の表示
- 2. 字数カウント
- 3. 折り返し文字数の設定
- 4. クラウド連携(Dropbox、Google Drive、OneDrive等)
- 5. 縦書きプレビュー

 

1. 改行、スペース、行番号等の表示
2. 字数カウント

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改行、全角スペースや行数表示機能を搭載。文字数・行数も「プロパティ」から確認できます。

 

これまでChromebookで使用していたシンプルなテキストエディタ「Text」「Writebox」あたりには、改行や全角スペースといった編集記号の表示機能がなかったのですが、「Jota+」には標準装備。
字数カウントと併せて、ブログだけでなく、小説などの原稿執筆でも重宝します。

  

3. 折り返し文字数の設定

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上記は折り返し幅80字で設定。1行あたりが長すぎず読みやすい。

 

ChromebookでAndroidアプリを使う場合、基本的に画面サイズは「標準」(縦長)か「全画面」の2種類しかありません。

 (※追記:ChromeOSのアップデートにより、下記記事の通り、現在はアプリのウィンドウサイズが変更できるようになりました。2017.10.15現在、ASUS C202SAで確認。)

www.sotoblog.com

 

クラムシェルのChromebookとしては標準サイズでは小さすぎるし、全画面にすると個人的には1行が長く読み辛いな、と思ったのですが、「Jota+」では折り返し文字数の設定ができます。これでかなり可読性が上がります。

 

4. クラウド連携(Dropbox、Google Drive、OneDrive等)

jota-03

各種クラウドストレージに接続可能

 

各クラウドストレージに対応したプラグインアプリをインストールすることで、Dropbox等のクラウドストレージにアクセスすることができます。ローカルと変わらない使い勝手でファイルを扱うことができて便利。無料版では1日2回のアクセス制限がありますが、PRO-KEY(650円)を購入すると無制限で利用できます。

 

5. 縦書きプレビュー

jota-tate

 縦書きプレビューがワンアクションで出来るのが魅力

 

こちらもプラグイン「縦書きプレビュー for Jota+」をインストールすることで使用できます。(無料版は2000字まで、320円のアプリ内課金でフル機能を利用可)
個人的には「Jota+」の白眉の機能。編集中のテキストから、「縦書き」ボタンを押すだけで、縦書きで表示できます。
「Jota+」を使う以前、私はAndroidでは「Jota Text Editor」で入力、ファイルを保存したあと、別途、青空文庫等のビューワである「縦書きビューワ」アプリで開く、という方法で小説等の推敲をしていました。
それよりもずっと手軽に直感的に使えるので、小説やその他の原稿で、縦書き表示が前提の文章の推敲を行う人には、非常に便利な機能だと思います。「IPA明朝・IPAゴシック」両フォントが含まれていて、禁則処理にも対応しているためとても読みやすく、実際の読書感とほぼ同じ感覚で推敲することが可能です。

 

その他、
- 複数ファイルの同時編集
- シンタックスハイライト
- ファイル自動保存
などの機能もあり、(私は全くやらないのですが)プログラミングを行う方にとっても使い勝手の良いアプリと言えそうです。

 

まとめ―「書きたいときにすぐ書ける」Chromebookとの相性も素晴らしい。 

C202SA-key

C202SAは日本未発売のため、USキーボードですが、これは「慣れ」ます。私も今は、日本語(JIS)キーボードより、こっちの方が書きやすいくらい。

 

私の用途としては、基本的には長文テキストのベタ打ち、主にこのブログの下書きに使っています。他には、最近は書けていないのですが、小説の執筆に使うつもりなので、そのあたりも考えると、「縦書きプレビュー」も含めて、(私にとっては)必要十分な機能が、過不足なく揃っている印象です。
Chromebook以前には、iPad+Bluetoothキーボード、というのが私の日常的な入力環境だったのですが、Chromebookというラップトップの特性を生かして、より「書きたいと思ったときに書ける」環境が整った、と感じています。

 

 

【※追記(2018.1.19):他の情報を遮断してテキスト入力に集中したいときには、テキストエディタ「Writebox」もオススメです。】

 

【Chromebook C202SAについての関連記事】

  

“スウィート7(なな)モンスター”

 

“トイケン”/少年時代は覚えていない/父親はクルマのなかで歌をうたう

 

自分の子どものことだからといってこういうところに何でも書いてしまうのは、子どもに対してフェアじゃないような気もして少し気が引けるので詳細には書かないけれど、先日の日曜日は運動会で、小学2年の長男は「風邪をひくか怪我でもして休めればいいのに。」と思っていたようです。前日の夜、風呂に入ったあと裸のままなかなか着替えない、彼なりの“牛歩戦術”は涙ぐましくも微笑ましかった。

 

私は現在単身赴任で週末だけ家族の許に帰りますが、週末の二日間のルーティンのなかに、息子との“トイケン”があります。息子に誘われる“トイケン”とは「トイレ見学会」の略。ただ息子が用を足すのを私が同室して見ているだけ(その間に私に息子が悪態を吐いたり下ネタを行ったりするだけ)なのですが、寝る前や出かける前のこのバカバカしい十数秒は、私にとっては、そしておそらく長男にとっても貴重なものなのです(やはりこうしてこういうところに書くのが憚られる気持ちがある程度には)。

 

映画のなかに“トイケン”的な瞬間が描かれることは滅多にないが、よくできた低予算の青春映画には時々見られるようです。さっき見た『スウィート17モンスター』はとてもよかった。この映画の感想は、少し間を置いて、改めて書いてみたいと思います。

 

息子が運動会が嫌いな理由を、彼自身ははっきりとは言わない。それほど運動が得意でもないし、恥ずかしがり屋でもあるし、皆で盛り上がるのが特別好きなわけでもないし、そういうのが混じり合ったものなのでしょう。私自身、運動会は好きではなかった(多分)ので、気持ちはわかります。

 

「多分」と書くのは私は少年時代や青春時代のことがうろ覚えで、思い出そうとしてもディテールが浮かばないからです。少年時代に読んだマンガや見ていたテレビの話を、微に入り細を穿って語り合う人もいますが、私はそういうものも覚えていません。記憶を共有した人たちとそれを語り合うようなことをして来なかったからなのか、ただ覚えが悪いだけなのか。

 

息子の“トイケン”も、彼は大人になったら忘れているかもしれない。と思うと、アンフェアであってもこういうところに書きつけておくのは(少なくとも私にとっては)有用じゃないかと思います。どうせもう少ししたら、自分でキーボードを叩いて、あることないこと思いの丈を書きつけ、あるいは親への不満もそこへぶつけるようになるでしょう。

 

そう想像することに悪い気はしません(その想像そのものが、ちょっと都合良すぎるくらいで)。映画のなかで、とくにアメリカ映画のなかで、父親はよく車のなかで歌をうたいます。ステレオに合わせて、自分の好きな曲をかけながら、妻や子どもに煩がられながら。『スウィート17モンスター』ではビリー・ジョエルでした。彼は娘に好かれていましたけどね。

 

スウィート17モンスター [DVD]

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Ost: the Edge of Seventeen

Ost: the Edge of Seventeen

 

 『スウィート17モンスター』(原題:The Edge of Seventeen)OST。残念ながら劇中に使用されたビリー・ジョエル“You May Be Right”は未収録。

 

映画レビュー『ダンケルク』――物語らない、あるいはノーランと田中小実昌。船底の穴と寝台の穴。

ダンケルク
原題:Dunkirk
製作年:2017年
監督:クリストファー・ノーラン

  

wwws.warnerbros.co.jp

 

クリストファー・ノーラン監督の新作『ダンケルク』を観て、ダンケルク海岸で死んだ兵士も、生きて帰った者も、この映画によって、「今もあの時間のなかで生き続けている」ことになった、あるいは、「今もあの時間のなかで生き続けていることが証明された」という気持ちが芽生えてしまい、その思いが数日経った今も頭を離れません。

 

祖父のビルマの地図、物語を作ること。

 

数年前に亡くなった私の祖父は、太平洋戦争で激戦だったビルマ戦線に従軍し、帰還しています。祖父の亡くなる数年前、帰省した折に近くに住む祖父の許を訪ねた際、祖父の部屋のベッドサイドに、ビルマの地図(おそらく、戦争当時を再現した地図だったと思います)が貼られていたのを覚えています。既に80代後半であった祖父にとって、60年前の戦場の記憶とは何を意味していたのでしょうか。


――こういうふうに、外側から考えることが、物語を作るのだと思います。当事者にとっては、眼前の事実でしかない。おそらくは、晩年の祖父にとってのビルマも、遠い過去の思い出、というようなノスタルジックなものではなく、「眼前の事実」だったのではないか、というのもまた、外野からの勝手な物語でしょう。

 

田中小実昌の従軍小説「寝台の穴」。

 

小説家で翻訳家で、テレビタレントや俳優としても活躍した田中小実昌(1925-2000)の、中国戦線での従軍経験を書いた連作小説集、『ポロポロ』(1975年)に収められた「寝台の穴」という小説があります。「寝台の穴」は、不衛生な従軍生活でコレラを患った兵士のために開けられています。

 

 寝台の三分の二のところの四角い穴を見て、なんの穴か、とぼくがたずねると、その初年兵は、ヘッ、ヘッ、とわらった。
「寝たまんまで、便ができるようになっとるんや。コレラ患者は、いちいち、厠までいかんでもええちゅうこっちゃ。また、厠までいけん者もおるしな」

 

田中小実昌「寝台の穴」より(『ポロポロ』所収)

 

田中小実昌の従軍小説では、戦場の過酷さが描かれても、そこには、戦争体験のない私たちが想像する悲壮感や、「物語」がありません。目の前の、些細なディテールに終始しています。「寝台の穴」では、下痢をした「ぼく」=田中小実昌が、便器に排泄した「白い、ほそ長いもの」をめぐって、詳細な描写と考察が続きます。

 

 ぼくは軍袴をずりさげ、尻を出したカッコで、便器に浮いた、白い、ほそ長いものを見ていたが、姿かたちはそのまま、また、便器の底にたまった水のなかの位置もそのままそこに、ひょいと、ウドンがあった。さきのほうが、すこしこまかくくだけた、ひとすじの白いウドンだ。

 

その「白いウドン」をめぐって考えを巡らせながら、著者は、「自分に物語をしているのかもしれない」と、自分の書いていること、考えていることが、物語になっていないかについてこだわっています。

 

クリストファー・ノーランが2017年の現在に現出したもの。

 

映画『ダンケルク』は、海岸で救助を待つ兵士たちの1週間、救助に向かう民間船の1日、スピットファイア戦闘機で撤退作戦の援護に向かうパイロットの1時間を、巧みにコラージュして、100分あまりのタイムサスペンスに仕立てています。


一般的な劇映画のようなドラマ性は抑制されており、会話、心理描写も極めてミニマルです。戦況を俯瞰し物語化する姿勢を避け、彼らの身に次々に降り注ぐ一瞬一瞬の出来事を、観客に体感させるように、ディテールだけを描写していきます。


なかでも、座礁した船に乗り込んで満潮とともに脱出を図る主人公、トミー*1たちが、船外から独軍の射撃訓練の標的になり、穴だらけになった船底で銃声に怯えるシーンは印象的でした。

 

『ダンケルク』で描かれた戦場のディテールは、取材を元にしたフィクションだと思いますが、『ダンケルク』は史実を忠実に映像化、作劇したものではなく、時間軸や戦況の描き方において、映画的な「虚構」によって成立していることは、監督自身の語りや様々な批評、分析によって明らかになっています。しかしそれは戦争を私たちが飲み下しやすい「物語」にしたのではなく、

 

(……)ひょいと、そこに、ウドンがあったのだ、気がついたら、ひょいと、そこに……というのもちがう。気がついたら、というのにも時間がある。なにかがウドンになったのではない。なにかになるのには時間があるが、ひょいと、そこにあるのには、時間はない。

 

と、田中小実昌が、自身の排泄した「白いウドンに」について描写したような、即物的なものとして、ダンケルクの戦場を描出したのです。そこに物語がないのは、戦場を描くうえで必然だったのであって、1970年生まれのクリストファー・ノーラン監督が、1940年のダンケルクを2017年に、「今もあの時間のなかで生き続けている」と思わせる巧みさで現出した偉業によって、祖父のビルマが今ここに描出されたような、めまいのするような感覚を私は覚えています。

 

ポロポロ (河出文庫)

ポロポロ (河出文庫)

 

 

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【映画関連のこれまでの記事】

*1:「トミー」は英軍兵士を意味するスラングであり、この役名は固有名というより「兵士A」というような匿名的なものです。

祖母と“第三の新人”たち、祖父とビルマ戦線――小島信夫から『ダンケルク』まで。

今週のお題「私のおじいちゃん、おばあちゃん」


20170920-eye


先日私は自身で書いた祖母の告別式での挨拶を引用し、祖母の思い出について書きました。そこで私は、祖母と同世代の作家たちが晩年に書いた小説について触れています。


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わたしはおばあちゃんの訃報に接して、一昨日の晩、なぜか本棚からおばあちゃんと同世代の小説家たちが晩年、今のおばあちゃんと同じくらいの歳で書いた小説をいくつか取り出し、開いてみました。それらは作家の日常を描いたものです。おばあちゃんも本や芸術が好きで、おばあちゃんの部屋には婦人雑誌や絵画についての本や小説などがたくさんありました。わたしが文学や芸術に興味を抱くようになったのは、おばあちゃんの影響もあったように思います。

「孫代表の挨拶(祖母の告別式、平成24年1月25日)」より
http://d.hatena.ne.jp/tkfms/20120125


小島信夫と庄野潤三の晩年の著作


ここで挙げている小説とは、具体的には、小島信夫の『残光』(2006)、『月光・暮坂 小島信夫後期作品集』(2006)、庄野潤三『山田さんの鈴虫』(2001)などであって、日本文壇史的には“第三の新人”と呼ばれる作家の、晩年の著作です。 正確には、

- 庄野潤三:1921-2009、満88歳没
- 小島信夫:1915-2006、満91歳没
- 私の祖母:1920-2012、満91歳没

であり、小島信夫の2006年『残光』も含めて、祖母の亡くなった年齢よりも、いくらか若い年齢で書いたものですが、80歳を超えたあたりからのディケイドというのは、本人にはどう感じられるものなのでしょうか。


庄野潤三『山田さんの鈴虫』は、『貝がらと海の音』(1996年)あたりから晩年まで書き続けられた、著者夫婦の日常を綴った小説。小さなエピソードを、日記のように綴ったもので、ほぼ年に1冊のペースで、それぞれ『庭のつるばら』『うさぎのミミリー』といったタイトルがついて長編小説として刊行されています。
小島信夫の『残光』もまた、作家そのものである語り手の日常を書いていますが、こちらの方はより縦横無尽な語り口であって、時間軸も発話者も、文章のトーンさえ不定形。小説、というより、小島作品を読み慣れていない者にとっては、“ただ惚けているだけ”と感じる人もいるかもしれません。庄野潤三の小説にしても、“ただの日記じゃない?”という人もいるでしょう。


思考の痕跡としての小説/小説は読んでいる時間のなかにしかない


たしかに『山田さんの鈴虫』や『残光』を読んでいると、庄野潤三や小島信夫があと半世紀、遅く生まれていたら、ブログで文章を書き続けているのではないか、とも思いますが、そういう仮定にはあまり意味がありません。
ただ、彼らが晩年に書いた小説には、彼らが小説家として半世紀に渡り書き続け、思考し続けてきた痕跡のようなものを感じます。
短い文章でその魅力を伝えるのは難しく、“小説は読んでいる時間のなかにしかない”という、晩年の小島信夫と交流の深かった小説家、保坂和志(1956年生まれ)がしばしば使う言葉を、ここでも使いたくなりますが、少しだけ引用します。


往来で大声で訴えなくとも、たとえば声を出さなくとも、心の中では、訴えたい気持があったことは事実である。直接に和やかに、多少妻がヘンと見えるかもしれない機会を作った。短いコースになってからでも、花の咲く時期に住宅街を歩いていると三、四人の婦人達が道路の中央で立ち話をしていた。もっと近づくと、右の一軒の二階家が夫婦ともに目についた。玄関先きからはじまって、家のぐるりがありふれた花で飾り立てられている。

小島信夫『残光』より


しかしこの程度引用してもやはりだめで、この調子で続く小説を5頁、10頁、50頁と読んで初めて、その面白さがわかるのです。そして小説は読んでいる間面白ければ、どこで読み終わってもいい。保坂和志はデビュー作『プレーンソング』で編集者に「長すぎる」と言われ、「適当なところでカットして下さい」と答えたといいます。


祖父とビルマ戦線、自室に貼られていたビルマの地図


祖母といえば私にとっては母方の祖母で、祖父といえば父方の祖父です(母方祖父と父方祖母は私の生まれる前と幼少期に亡くなっている)。
祖父は先の大戦のビルマ戦線の生き残りで、暗号兵をしていたといいます。戦後、警察官として警察署長にまでなった祖父は(私には)恐い存在で、あまりこちらから口を聞けず、話をできなかったこともあって、戦時中の話を祖父から聞いたことはありません。祖父が自費出版した、先に亡くなった祖母に捧げた自伝で読んだだけです。暗号兵というと小島信夫がそうで、『墓碑銘』『寓話』の登場人物、浜中がそうでした。


祖父の亡くなる少し前、自室にビルマの地図が貼られていたと記憶しています。ヨーロッパ戦線初期を描いた映画『ダンケルク』を昨夜劇場で観て、そのことを思い出しました。
『ダンケルク』の“無名の主人公”トミー(「トミー」とは、イギリスの兵卒を意味するスラングだそう)は、生きてイギリスへ帰還しますが、私にはあの映画は、「ダンケルクの戦い」の死者たちが、いまもあの時間のなかで生き続けているように感じられました。
生きて帰って来た祖父の戦後60年とは、どういうものだったのでしょうか。
祖父の部屋に貼られたビルマの地図の意味は。




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映画レビュー『ズートピア』――過ちを認めうること/"Try, Try, Try"

 ズートピア
原題:Zootopia
製作年:2016年
監督:リッチ・ムーア、バイロン・ハワード


昨年の公開時、興行的にも批評的にも大きな評判を呼んだ本作。当時、“欠点がないのが唯一の弱点”といった評も耳にしつつ、私は今日まで、この『ズートピア』を観ていませんでした。「観たら絶対面白いし、感動することもわかっているのだけど……。」そう思っていました。

 

「なりたいものになれる世界=ズートピア」の表と裏を描く傑作。 

 

今回、2歳の次男のためにDVDを手にしたのですが、(子どもより先に)初めて観て、それが杞憂だったことがわかりました。

動物たちが実際の動物の特徴を持ったまま、人間のように暮らす「ズートピア」を舞台に、“史上初のウサギの警察官”という夢を通して、なりたい自分になろうとする主人公・ジュディの成長を、キツネの詐欺師ニックとの出会いや、肉食動物の行方不明事件の捜査を通じて描くストーリーは、既に公開から1年あまり、たくさんの人に共有されていることと思います。

 

誰もが夢を目指す理想郷としてのズートピアが、実は動物の種族間の偏見や差別に満ちていて、「世界をよりよく」するために警察官を目指すジュディさえ、その偏見から無縁でないことなど、現代の人間社会の写し絵のような世界観には説得力があります

しかもそれが、これ見よがしのおためごかしではなく、アクションやサスペンス、刑事物のバディ・ムービーといったエンターテインメントのツボを押さえた、ストーリー上の必然として描かれているところが素晴らしい。

 

自らが思わず発した肉食動物への偏見の言葉によって、(力に勝る肉食動物と、数に勝る草食動物間の)社会の対立構造を煽る結果を招いたことに責任を感じ、一度はズートピア警察を辞したジュディは、肉食動物行方不明事件の真相に気づき、再びニックに協力を求めるために彼の許を訪れます。

そして自身の過ちを認め謝罪をし、ニックがそれを受け入れるシーンでの、ジュディの言葉の誠実さには、誰しも心打たれます。

 

本作とは違うかたちの"Try"について。スマッシング・パンプキンズの"Try, Try, Try"

 

ただ、本編が幕を閉じ、シャキーラが、劇中のズートピアの人気歌手、ガゼルとして歌う感動的な主題歌"Try Everything"が流れるのを聴きながら、私が思い出していたのは、90年代に一世を風靡したオルタナティヴ・ロックバンド、スマッシング・パンプキンズの"Try, Try, Try"という曲でした。

スマッシング・パンプキンズの解散(バンドはその後2006年に再結成している)直前、2000年のラスト・アルバム『マシーナ/ザ・マシーンズ・オブ・ゴッド』からのシングル曲ですが、本作はそのミュージックビデオの衝撃的な内容が反響を呼びました。

 

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薬物依存症で路上生活者の男女のカップルの、妊婦である女性が身体を売ったお金で薬物を買い、注射をして幻覚を見る様子が描かれています。

 

Try to hold on
To this heart
A little bit longer
Try to hold on
To this love aloud
Try to hold on
For this heart's
A little bit colder
Try to hold on
To this love

 

The Smashing Pumpkins "Try, Try, Try"
Lyrics by William Patrick Corgan 

 

この曲のMVがこのようなものであることによって、「この愛が/この気持ちが冷めないうちは、この気持ちを持ち続けよう」と歌う詞の、悲痛なまでの切実さが伝えられています。

 

 過酷な現実を乗り越える方法論(描くことと描かないこと)。

 

もちろん、その過激な描写ゆえにほとんどOAされなかったというこのMVと異なり、ファミリー・ムービーである『ズートピア』に、現実の、ほんとうの辛辣さ、残酷さは描かれません。

しかし差別や偏見を乗り越えようと努力しつつ、夢や希望に満ちたこの世界は、"Try, Try, Try"に描かれたような現実を含むものです。全てを取捨選択して描くことのできるアニメーションにおいては、十全に描かれているように見える世界で、しかし、「そこにないもの」は現実にないものと錯覚しがちです。子どもたちにそれを強調する必要はないでしょう。しかし私たちは、現に世界がそういうものであることを知っています。

 

だからこそ、『ズートピア』のような希望に満ちたハッピーエンドも、"Try, Try, Try"のような、厳しく、終わりのない哀しみに満ちた作品も、私たちの心を打つのです。

 

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Machina: The Machines of God

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